鬱病、パン屋で食パンを切ってもらう
駅前を通りすがった際、パンが焼けるいい匂いにつられて無意識にパン屋に吸い込まれてみた。ニートの良いところは吸い込まれたい時にいつでも吸い込まれられるところである。
小さな店内にところ狭しとパンが並ぶ。個性的で見た目が工夫されていて、具材展開も豊富な美味しそうすぎるパン達。ざっとみても40種類くらいある。価格もそこまで高くない。店内を回すのは店員2名。客の数は7名。嗚呼、絶対ブラックなんだろうなと目を細めて店員に同情しつつ、その推論に気づかなかったふりをして、只のニート客として旨そうなパン達に自由に手を伸ばす。
レジ前でつっかえている主婦のグループがそれぞれ10個程パンを買い占める。あの量はどれくらいの速度で消費されるのだろうかとパンの種類や主婦の出で立ちから構成家族を想像する。渋めな大きいブルーベリーパイが二つあるということは、1つを彼女が食べると仮定した場合、子どもは大きい?夫が甘党?いや、異性愛を前提で考える私はジェンダーバイアスがかかっているか?などと、人が目の前にいるといくらでも脳は動く。おそらく働いていた時は客が会計のために長蛇の列を作っているのに大量のパンを買う人間に対して、とてつもなく腹を立てたと思う。が、ニートは他者に対して寛容さを生み出すようだ。只の観察タイムであった。
列が一向に進まないので、トレーを持ちながら無防備に立ち尽くしていると、グループに所属する最後の主婦が12個目のパンをカウントされたタイミングで「あ、あと、食パン、6枚切りで!」と衝撃的な注文をする。「はい!!」と言葉が視覚化できるならば、きっとレジ前に置き去りにされたなという勢いで返事を叫びつつ、文字通りカウンターから飛び出し店奥に消える店員。必死に6枚に切り落としているだろう店員を待つ無表情の客7名。気まずい空間でも無神経に滞りなく流れるジャズ。仕事の始業時間が差し迫っているのか、若干苛立つ若い女性客。他の人にあからさまに迷惑をかけている時、主婦はどんな顔をするのかと観察する私。殺伐としだす店内。私が半日を過ごしていたビジネス街ではまずお目にかかれない光景であり、興味深かった。
どうやら、目の前の棚のチラシをガン見して時間を潰すことに決めた主婦。平気でブラック企業の店員を酷使できるくらい、この人の生活も余裕がないのかと勉強になる。しかし、地元のパン屋で食パンの6枚切りをオーダーして買うのは、私はやったことがないし、なんか面白そうだった。6枚切りの食パンを手にしたレジ担当が大股でいそいそとレジに舞い戻り、もう片方の店員がパンの品出しのために店内に顔を出した時に、思わず私も「す、すみません、食パンの6枚切りお願いします」と頼む。レジに並ぶ間に6枚に切られた食パンを持ってきてくれた。頼む時に物凄く申し訳なさそうな顔はしていたし、レジの店員を慌ただしくさせなかったので、あの主婦よりは優しいだろうと無理やり納得させる。
でも、地元のパン屋で食パンを切ってもらうというのは、なんだか大人の階段を登った気がした。少なくとも、学生時代には存在しなかった選択肢だ。会社の都合で無理やり住まわされている辺鄙な土地に、愛着なぞこれっぽっちもないが、地元に根差してる感覚は体験としては楽しかった。体験できることが増えるのはやはり楽しい。死んであの世に持っていけることにこそ価値があると思う。
我が家にはスーパーで買った178円の6枚切り食パンがあり、いま、私の手元にはホカホカの810円の6枚切り食パンがある。食べ比べを楽しもうではないか。
明日も自分に優しくできますように。