元鬱病、イエローカードを持たせてもらう
昔から、変だと言われた。実の親に向かって「それって人としておかしいと思うよ」と宣う小学生だったのだ。巷では目に入れても痛くないほど可愛がることで有名な祖母にも苦々しそうに「あの子だけ扱いにくい」と言われているのを子供部屋から聞いた。今ではその無遠慮さにアルファベットの病名でもつくのだろうか。
つい先日も、たった半年の付き合いしかない人に「変な人ですね笑」と相変わらず言われた。彼に悪気はないのだろうが、ふと思考が立ち止まった。
そんな風に育てられたので、変と言われることは自覚していたし、変が悪い意味で使われることもわかっていた。一方で、自分自身は変である自覚なんてこれっぽっちもなかった。普通など定義できないのに自分の軸だけで相手を変だと揶揄するお前らの方がよっぽど頭おかしいだろと冷めていた。
しかし大学生の時、とある人に「私は変なのでね」と自嘲していたら「違うよ。君は色んな経験をしたからこそ多角的なものの見方ができて、それは個性的で魅力的なんだよ!」と言ってもらえた。その時、そんな風に呆気なく呪縛を解き放ってくれる人もいるのだなと驚いた。あの安っぽいビール越しに言われた言葉を、嬉しさを忘れられない。
あれ以来、彼にイエローカードを貰った気がした。それは自分で思ってもないのに他者から言われて傷つくのを恐れて、前もって卑下して変だと自称しないこと。そして、変だと言ってきた人間への違和感を無視しないこと。
だから、変だと笑いながら言ってきた君よ。君が取り得る選択肢は二つ。変を個性的、おもしろいに変換するか、私が離れるのを受け入れるか。
イエローカードをくれた人がいまどこで何をしてるかは知らない。彼もまた私が何を言ったか覚えていないような会話の中で「君に墓場まで持っていく十字架を軽くしてもらった」と言ってくれた。もう交わらない繋がりなのに、お互い救われるなんて、なんだかロマンチックだよなと思う。だから生きるのは辛くても辞められないのかもしれない。辛さを容易く、自分が納得できる風に軽くしてくれる人がいると知ってしまったから。現況は知らないが、今でも好きなサイフォンコーヒーを楽しく飲んでいてほしいなと思う。
明日も自分に優しくできますように。
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