超短編「忘却できなかった」
祖母が、私を好いてないことは、子供心ながら感づいていた。
父は、地方の名士の家柄だった。親類や兄弟がそうであったように、似たような家庭環境の娘が無難であると、両親は見合い話を持ちかけてきたが、父は首を縦に振らなかった。
祖母は、そんな息子にやきもきしながらも、今時は自由にさせるものかもしれないとも放っていた。
真面目で優しい息子だった。親の欲目でなく、誰に対しても変わらぬ誠実な人当たりの良さは、近所でも評判だった。
大学生時代、見知らぬ土地の見知らぬ名前が送り主の荷物が突然、息子宛てに自宅に届いた。
聞けば、息子が旅先で、農道の側溝にトラクターのタイヤが嵌り困っていたおじいさんがいたのを、手助けしたお礼の品だった。おじいさんの農園で採れた林檎だった。
そんな息子である父は、祖母にとっても自慢の息子だった。
30歳も過ぎたある日、息子が家に連れてきた娘さんは、初々しく、それは可愛らしい娘さんだった。遠慮しつつも気遣いする姿は好感の持てる印象だった。
そう、私の母もまた優しい人柄だった。
しかし、結婚となると、母の生まれが母1人子1人という事情に祖母は不安を抱いた。代々続く地方名士。嫁を迎えるにも、我が家だけの問題ではない事情を経験から知っていた。
興信所の報告では、娘さんの母親には婚姻歴がなかった。
それでも父と母は結婚し、「私」が生まれた。
祖母は良識の上の振る舞いをしたが、それ以上にプライドが高かった。嘘が苦手だった。
親類との付き合いで、母の父親についての話に及ぶと、「亡くなっているから分からない」と言うものの、ひた隠しにすることがストレスだった。
しかし、大事な息子の愛する大事な嫁と孫であることは重々承知していた。
「私」が20歳過ぎると祖母は病気がちになっていった。
確かに、祖母は「私」を大事にしてくれたけれど、その態度は冷ややかだった。
着物や宝石をくれたけれど、なんだか冷ややかだった。
何度目かの入院で、もう祖母の意識は朦朧としていた。
担当医は、「もう長くないと思いますので覚悟してください」と私たちに言った。
窓の外は木枯らし。
晴れた冬空の日。
祖母は
「やっと忘れていい時がきたね」
そう言って静かに息を引き取った。