30年の想いを乗せた愛車との別れーー好きに生きると決めたから

愛車を手放した。
1994年に発売された「セリカGT-FOUR」というクルマだ。
自分のはさらに限定車で日本では2100台しか製造されなかったらしい。

人生で初めて「かっこいい」と思ったクルマだ。
7年前、前職の自動車メーカーに入社したタイミングで手に入れた。
「独り身だし、今しかできん!」と思った。

購入時にはすでに20年は経過していた。だから故障も多い。
壊れては直し、また壊れては直しながら、7万キロを共に走った。

足回り、エンジン、ブッシュ類、冷却系、駆動系…

トラブルが起きるたびに同僚と「またかよー笑」とか言いながら、知識と手を借りて貴重な休みに朝から整備した。

仕事が辛いときもあったけど、そのクルマのことを考えていれば何とか頑張れたし、乗ればリフレッシュすることができた。

だけど最近、そのクルマに乗ってもワクワクしなくなってきた。

「あれ?セリカに乗っても気持ちが高ぶらない…?」

その違和感を無視できなくなっていた。

「愛車」にこだわってきた自分

先ほどから出ているように前職は自動車メーカーだった。
「誰かにとっての愛車を設計しよう」
「愛車を持つってどういうことだろう?」
そんなことを真剣に考える仕事だった。

だからこそ、幼少期から憧れていたクルマに乗りたかった。
「苦労してでも愛車を走らせる喜び」を味わいたかった。

そうして乗り続けてきたセリカ。
でも、いつの間にか自分の価値観は変わっていた。


「好き」のベクトルが変わってきた

昨年から、友人と雪山やキャンプに行ったり、ジムで体を鍛えたり、スポーツ指導をしたりする時間が増えた。
一人で走るより、人と楽しむことが増えていた。

すると、セリカの不便な部分が気になりはじめた。
「この道、大丈夫かな…?」
「ちゃんと目的地に着けるだろうか…?」

昔なら気にしなかった、いやむしろ「整備する喜び」があったのだ。
それが不安と負担になっていた。

「もっと安心して移動したい」
「もっと板とか人を載せたいなぁ」
「目的地に着くまでに体力を残しておきたいな」
そんな考えが浮かんだとき、胸の奥がザワついた。

今までの「好き」を否定してしまうような気がしたからだ。


セリカが象徴していたもの

思い返せば、このクルマにはいろんな想いを乗せてきた。

幼少期、怖かった父と唯一楽しめたクルマの話。
青春時代、手に入れたくても手に入らなかった憧れ。
社会人になり、「苦労して乗る愛車」にこだわり続けた自分。

思い出だけじゃない。
セリカは、世間体や競争の中で生きてきた自分の小さな「反抗」でもあった。

「期待に応えてきたけど、本当は好きなように生きたいんだ!」という、密かなメッセージだったのかもしれない。

そんなクルマに対して、もう以前のような熱量がない。
なぜだろう?

寂しさと共に考えていた。

「僕はもうセリカが無くても大丈夫だ」

僕は退職を皮切りにたくさんのことに挑戦してきた。
スキーに挑戦し、結果として辞めたけれど、バレー指導では成果を出せた。

運動・睡眠・食事に気を配り、体も変わった。
在職時はアル中のような時期もあったが立ち直って、今は笑っている。

セリカはかつて「好きなことに生きる」象徴だった。
でも今は、セリカよりも好きなことがある。
そして素直にエネルギーを注ぎたいことがある。

だったら、僕はセリカを降りるべきだ。
だって、好きなことに生きると決めたんだから。

セリカ自身も、もっと大事にしてくれる人のもとへ行くほうがいい。
そう思えたとき、ようやく気持ちが決まった。


そんな矢先の、もう一つの出会い

「もとあき、クルマどう?」

そんなタイミングで、もう一つ思い入れのあるクルマと再会した。
今の僕の「好きなこと」にぴったりのクルマだった。


「手放そう」

「そして、今の僕の好きなことに生きよう」

こうして、30年の想いを乗せた愛車との別れを決めた。
そして、新しい「好き」に向かって走り出すことにしたのだった。


あとがき:好きに生きるということ

昔の僕にとって、セリカは「好きなことに生きる」象徴だった。
でも、好きなことは変わる。
価値観も、求めるものも、人生のフェーズとともに変化する。

「昔の好き」を手放すのは、少し怖い。
でもそれは過去の自分への否定じゃない。

過去は役割を終えたのだ。

だから僕は決めた。


「今の僕の好きなことに生きる」と。


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