発酵物はどこかトマソンに似ている。
先週の記事で、オフフレーバーを酒質の設計に組み込んだ妄想をしていたが、このような不適格とされる要素を酒の内へ取り込むという妄想を行うことが好きだ。
それの結果が腐造性乳酸菌の酒のように妄想と結果が違ったり、非効率な車輪の再発明になったりということも多いが、これをやめられない理由は発酵という過程に僕が"トマソン"的な性質を感じているからに他ならない。
”トマソン”とは赤瀬川原平が提唱した建築に由来する構造物群に与えられた通称である。彼は”登って降りるだけの階段”や”通過できない門”など実態があるのに機能のない構造物を”扇風機とあだ名された打たないジャイアンツの4番バッターのトマソン選手”に見立て名付けた。
赤瀬川はトマソンを超芸術と呼び以下のように述べている。
現代において発酵物の本質とはこれではないかと僕は思う。そもそも発酵の出現が余剰物の腐敗の上に成り立っている。そしてその技術が保存の手法の延長から離れ、そのもの自体を楽しむ嗜好品となったことにより目的から逸脱し、トマソンになったのではないか。
それに微生物は無機質な製造機器などでは全くなく、発酵物は彼らの生存過程の代謝物として無意識に作られている。師匠が「大師匠が”酒は人じゃなくて麹菌や酵母が作るもので、その手伝いをしているんだ”とよく言っていた」という話をしていたのも、”作者はいなくてアシスタントがいる”という超芸術にどことなく似ている。
僕らは普段発酵物について快・不快以上を語ることはあまりない。に対し、トマソン———息をしている死体、またはコンクリート製の亡霊が想起させるのは過去に対する憧れというよりも今に向けたシニカルなノスタルジーである。
それらが語られないのは単に味覚や嗅覚の性質にもよるかもしれない。だが、ときおり美味しくないはずのに美味しい———非常にわかりやすい例えで言えばヨード臭の酷いシングルモルトウイスキーのようなものに遭遇すると味の是非の判断は誤動作し、そこにピートの———アウラとでも呼べるような発酵の亡霊を見ることがある。
エーレンツヴァイクの言うように境界を冒した先の曖昧さの中に美的感覚があるならば、発酵における美は官能評価的においてマイナスとなる要素との絶妙なバランスの上にある気がする。安心して飲める美味しいお酒を求めつつも、あきらかな違和感が心地よく腑に落ちる、そういう経験をどこか発酵物に求めている自分がいるからついついそのようなことを考えてしまうのだと思う。
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