世界情勢も日本も混迷しそうななか靖国に行き考えたこと。
皆さん今日は、そしてこんばんは。
本日、2024/10/20の東京はとても良い天気で日常の総ての悩みや苦しみ(仕事のこと、家庭のこと、学校のこと、恋愛のこと、金のこと、健康のこと、将来のことなど)を忘れてしまいそうでした。
私も精神的に少し辛い状態にあり、落ち着けるところを求めて、東京在住ですのでふらふらと銀座のあたりをうろうろしたり靖国の方へ向かいました。
九段下の駅から靖国神社のほうに地下鉄から階段を上っていくとこのような眺めです。(ある一定の世代の方には爆風スランプの歌が頭をよぎることでしょう)
改めて空が青いということはとても大切なことだと感じました。
日本にいるとあたり前にしか思わないかもしれないですが、
外国人観光客の中には、日本に来て空が青いことをみてとても驚く人も多いそうです。空が大気汚染で黄色い地域もあるときいています。
改めて、青い空を眺めることができることに感謝したいと思いますし、
この青空をゆっくりと眺め心を休めることが出来る日本を護ろうとした先人達に感謝したいと思います。
何があってもその気持ちだけは忘れてはいけない!
ふと横を眺めると皆さんおなじみの日本武道館でございます。
参道にはいり大鳥居に一礼してから入っていくと、大村益次郎の銅像があり。この銅像の前で外国人らしき人が、音声ガイドを使いながら、必死で理解しようとしておりました。大鳥居の前でピースして記念撮影したり、している外国人もいましたが、どこの人であってもその国のことを理解しようとしている人はいてとても関心し、私も鳥居を前に頭を下げる習慣くらい継続しなければいけないと改めておもったのです。
靖国神社の遊就館(ゆうしゅううかん)が有名なのですが、改修工事に入っているようでほぼ一ヶ月間、丸々休館となっていました。
参拝する為に本殿の向かうと下記の遺書があり、読むとぐっときました。
本来掲載していいものか分かりませんが、紙からPCで手打ちで筆者が打ち直しましたので掲載させていただきます。(権利等で問題がある、もしくは不謹慎と思う方がいれば削除します)
80年程前の日本語ですが、今の日本人がみても読めます。漢字が難しく変換するのが大変でしたが、できるだけ原文に忠実に漢字にしていきました。
今ならひらがなで書くような漢字でも漢字に、送り仮名も原文にできるだけ忠実にしました。漢数字が数字になっている以外は原文と句読点まで一緒です。
陸軍少尉 満留清藤命
昭和21年1月13日
満州延吉平壌分院にて戦病死
鹿児島県日置郡田布施村出身 43才
戦局愈々(いよいよ)緊迫し皇土決戦の今日皇軍(こうぐん)軍属の一員として軍に御奉公する僕は、
何時如何なる場合あり得るかを予想し、
僕亡き後の指針として左遺書を汝に残す。
汝と結婚をして15年この間汝は僕に対し誠に良き妻であり、
又子供達に対しても良き母であった。然して(しかして)
今日迠の道程を静かに追想する時、僕の一生は誠に幸福そのものであった。
反面汝は僕と結婚以来子供の養育に全身全霊を打込み、
一日として楽な日もなく、全く気の毒であったと思ふ。
と同時に心から改めて汝に厚く御礼を申す。
次に項を分かちて指示とす。
1.遺産其他(そのほか)は総て子供の養育費及学資金に充当せよ。
2.絶対に汝を信頼す。依而(よっ)て子供の養育上起こる総ての事項及條件(およびじょうけん)は汝の意思に依り解決せよ。
3.子供は勉めて軍人となすことを希望す。
4.勝己は長男としての本分を盡し(つくし)、決して母に心配を掛けぬこと。
5.弟妹は皆兄の言ひ付けを守り母に従い弟としての本分を盡せ(つくせ)。
6.子供は総て強い立派な人となり国家の為役立つ人となれ。
以上
昭和20年7月1日 主人 満留清藤
これを妻に書いて戦地に向かう気持ちを考えると、今の自分が抱えている悩みや課題などなんなのか。。なぜ、もっと強くそして自分なりの幸福を追求しようとしないのか。この人遺書を書いた、命(みこと)は43才という私より若い年齢で亡くなられていますが、今の私はこの人と同じくらい人に感謝をし一日を大切にして生きているのだろうか。
命はいつ燃え尽きるか分からない。もっと遣りたいことをやり尽くしその人なりの幸福を追求して生きてよいのではないか。そう強く感じました。
帰りに銀座によると晴海通りの三越前にて保守党のかたたちが銀座の一等地で演説をしていました。
日本の政局があれる、世界情勢もますます混迷しそうという大方の予想ができますが、日本のにままでの良いところを壊さないように守れるのが「保守」であると考えます。そしてその国の人がその人なりの幸福を追求する自由をまもれるのが保守でしょう。