見出し画像

この年私は大学生になった。

初めて親と離れて東京での一人暮らし。京王線つつじが丘駅から歩いて10分くらいの所。
1階が大家さん家族の住まいになっていて、2階が四畳半一間の部屋が4世帯あるアパートになっていた。

窓の外で何やらカラカラ回っている音がするので覗いて見てみると、窓を開けた段階でめっちゃ臭い。汲み取り式のトイレで、その換気のための臭突という、傘のついた煙突のようなものが回っていた。
それが私の部屋の窓の横にあった。その窓はそれ以来開けることはなかった。

その開かずの窓には雨戸がついていた。窓の外に木の板?札幌では見たことがなかったので不思議なものがついているなぁと思った。

夜寝るときに窓を閉めているのにカーテンがフワッと揺れる。最初の夜はお化けかと思って怖かった。
壁の柱とモルタルの境目から廊下の光が漏れている。

札幌でこんな家だったら凍え死んでしまう。

引っ越してまず最初にゴキブリの洗礼。
ゴキブリ用のスプレーをかけながら追いかける。ゴキブリが壁まで逃げて行って突き当り、急にこちらに向かって走ってくる。今度は私が逃げる。
なんとも情けない始末。
それでも何も入っていない押し入れに逃げ込んだのでスプレーをかけまくる。なかなかしぶとくて、押し入れの床にスプレーの水たまりができ、そこにポトッ落ちて息絶える。

これでやっと安心して寝られたが、朝起きたら喉が痛かった。
どうやら私もスプレーにやられたようだ。

大学には京王線で行くのだが、恐ろしいほどの込み具合。微動だにできない。
大学最寄りの駅で降りるときの一歩目がいつも恐ろしい。必ず右脚に電撃が走る。一瞬なのだが雷に感電したような太いビリっという電撃。
その一瞬だけなのだが、その瞬間には「下半身不随」というイメージと結びついていて不安だった。
痛みにはけっこう慣れていて、多少の痛みは平気だったが、不安には弱いのが私の体質らしい。

その頃は整形外科で言われた「無理をしていると下半身不随になるよ」という言葉が私を悩ませていた。
スポーツは好きなのだが、必ず下半身不随という不安とセットになっている。

ある時フッと自分の苦しさに気が付いた。
「痛い」という事実よりも、「不安」という苦しさの方が何倍も辛い。

だとしたら、不安になるのをやめて痛い方を取った方が私にとっては楽なのではないか。
こんな不安を抱えながらやりたいスポーツもやらずに体を大事にして、10年下半身不随になるのを遅らせるのと、
やりたいことを精一杯やって10年早く下半身不随になるのと、どっちが楽なんだろうかと。

そう考えると、それまで考えたことのない考え方が開けてきた。
当時はネットなどというものがないので情報がまるでなかったが、それでも下半身不随の人などいっぱいいるはずだということは想像できた。その人たちが全員地獄のような生活をしているはずがない。下半身不随になったとしても、それなりの生き方はあるはず。今よりもはるかに制限は多いし、周りの人に迷惑もかけるかもしれないが、それでも将来の不安に悩んでいる今よりはましだろう。
だったら、やりたいスポーツも思いっきりやって、十分に楽しんで、下半身不随になったらなったで、その時にどうするかを考えればいい。
その時その時に与えられた環境で自分にできる精一杯をやればいい。

そんな風に突然割り切れてしまった。
それからは、痛みを抱えながらも友達と一緒にスポーツも遊びも楽しんだ。
それ以来不安に悩むことは無くなった。
それでも京王線で降りるときの一歩目の電撃だけは、一瞬ではあるが不安とセットの感覚で嫌だった。そして、日に日に電撃が強くなっていった。
悩んではいないが、下半身不随もそれほど先の話しではないかもしれないと感じるようになっていた。

そうこうしているうちに大学3年生の時にフッと窓の外に治療院の看板がめについた。
毎日見ている風景なのに。いつも何とも思っていなかったのに。
なぜか、この時だけは目について、無性にこの治療院に通ってみたくなった。

今考えれば、これが私の運命の瞬間だった。

すぐに母に電話して、「通院してみたい」と話したら、すんなりと「お金を出してあげるから通いなさい」と言ってくれた。

その治療院では指を引っ張る不思議な検査法をしていた。

それがО-リングテストだった。

後から分かったことだが、その頃はまだО-リングテストが日本に入ってきたばかりの頃で、日本中でも数十人くらいしかやっている人がいなかったらしい。
不思議なことをやっているなぁとは思ったが、痛みは確実に減っていったので、通い続けた。

回数はかかったが、あれ程大変だった腰痛が治ってしまった。
私の人生は一変した。

それまで、こんな腰痛持ちの自分は何もできないと思っていた。将来の自分が想像できなかった。それが、今は何でもできるようになった。
やっと自由を手に入れた気分だった。

「人の人生を変えてしまうような、こんな仕事があるのなら、何が何でもやってみたい」と、ある時突然思った。

きっとこの思いが、私の心の奥底の、私本来の価値観なのだろうと思う。
この価値観に従って生きることが、私にとっての納得のいく人生を生きる条件なのだろうと、今になってみればわかる。
しかし、あの頃は不思議な情動に導かれたとしか言いようのない感じだった。よく言う「運命」なのかもしれない。

そして両親に相談したら、大学を卒業してから専門学校に行かせてもらえることになった。



いいなと思ったら応援しよう!