
奈良でゆく年くる年 (1)
奈良で過ごした年末年始の旅行記がようやくまとまった。


B5で35ページほどの冊子になったので、少しずつ分けてここに転載させていただく。
プロローグ
10月頃、かねて行きたいと考えていた奈良、櫻井の談山神社を巡るツアーを見つけた。
それは暮れの内に出発し、橿原神宮で初参りをする明日香を巡る3泊4日の旅だ。
お正月に家を空けたことは一度もない。毎年家族が集まって新年を祝っているので、その習慣を断ち切るのはちょっとした決心がいる。
その事を娘たちにラインで相談すると
「行ける時に行ったほうが良いわよ。元気なうちよ」
という答えが返ってきた。
お正月に・・1年に一度家族で改まって新年を寿ぐ習慣に拘ってきたので、その習慣を手放す事自体にも、逡巡の心が動く。
しかし、時代は進んでいる。お節自体も食べない人々が増えている今、古いことに囚われるのは時代遅れ???
それに老いが進んでいる今、来年行かれるかと言えば甚だ心許ない。
実際、12月初旬に夫が少し体調を崩し、続いて私も体調不良となった時、すでに申し込み済みのツアーをキャンセルしなければならないかも・・と不安になったりした。
確実に体力は衰えつつある。
そんな中で幸い体調も回復、旅行に出発できた。
12月30日(月)
京都駅 12:50発近鉄特急→大和八木駅13:37着→カンデオンズホテル→八木町散歩
今回のツアーは京都駅集合となっている。暮れの30日の新幹線チケットを個人で入手するのは難しい気がして、ツアー会社のワールドに手配をお願いした。
小田原発10:17ひかり637号、京都駅着12:12
新幹線京都駅中央口でワールドの添乗員佐藤さんの出迎えを受け、近鉄特急の指定席券を受け取り各自乗車、大和八木駅に向かう。
八木町散歩
大和八木駅から駅前のホテルにチェックイン、荷物を置いてから出かける。現在でも八木町には、近鉄橿原線、大阪線、JRと各地につながる交通網が集まっているが、中世から街道の要となっていたらしい。
街を西から東へと横切る横大道は伊勢街道とも呼ばれ大阪から京都に至る道で、日本書紀に推古天皇の時代(613年)
「難波より京に至る大道を置く」
と記された大道のルートと重なり、日本初の国道とされているという。
平成に入ってからの発掘で、この横大道の側溝が発見され、中から7・8世紀の土器がたくさん発掘されたとのことだ。
横大道は現在では一部を除いて細い道だが、当時は横幅が30〜40mある大通りだったらしい。
江戸時代の初め伊勢信仰が急速に高まり、伊勢神宮までの道先案内として街道筋に「太神宮灯籠」というのが建てられ、
「接待場(せんたいば)」も設けられ旅人に無料のお接待がされた跡も残っている。

折しも、年末に朝井まかて著・伊勢参りを題材にした
「ぬけまいり」を読み始めたところで、特別の縁を感じ、
旅人で賑わう当時の様子を想像する。
帰宅後続きを読むのが待ち遠しい。
横道を辿る途中、奈良から吉野へ向かう下ツ道(中街道)と交差する場所があり、「八木の札の辻」と呼ばれ井戸などもあり、大層賑わっていたという。

重要文化財になっている旅籠や、高取藩に仕えた尊王攘夷派であった盲目の漢学者、谷三山という学者の生家、郵便局だった古民家などを見学する。
ほとんどの家が現在も住まわれている様で、外観を見学するだけだったが、2〜300軒はあるという古民家のある街並みは、郷愁を呼ぶ。
なかで、谷三山の家だったところでは偶然家主の方が玄関前に
いらして、お話を伺った。
「吉田松陰も三山に教えを乞うたと言われる」とお話なさるこの方のお顔が
銅像にある三山のお顔と似ていらっしゃるのが印象的だった。
・・・DNAは争えない・・
また郵便局だったという民家の瓦には郵便局マークがあり、こんなところにこだわる当時の心の余裕を思った。
「トラットリア・前澤」
ホテル戻り、小休憩の後、歩いて数分のイタリアンへ。

残念ながら前菜の写真を写し忘れた。
野菜は明日香地方の野菜を自家農園で、牛は大和牛の雌を、モッツレラチーズはイタリアから毎週取り寄せて・・・と新鮮な食材を使うことにこだわっているようで、なかなか美味!!
若者には少し物足りないかもしれないが、私たちには程よい分量で美味しくいただけた。
以上、旅行1日目の記録です
明日からまた少しづつ転載いたします。
よろしかったらご覧ください!!