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奈良でいく年くる年 (4)

奈良3日目、の後半と最終日です。


表紙
冊子の中身

川原寺跡弘福寺(ぐふくじ)
飛鳥の地に戻ってきた。付近に「飛鳥寺」「石舞台」などが残り、飛鳥時代を偲ぶ数々の遺跡がある。現在は整備され綺麗な公園になっているようだが、
私が学生時代に研修旅行で訪れた60年ほど前には、ただただ広い原っぱに
ポツンと石舞台があったが、その印象は鮮明だ。

奥に見える寺院は「飛鳥寺」

付近はのびやかな風景が広がっている。
川原寺は壮大な敷地を持ち
「1塔2金堂式」と呼ばれる独特の形式を持つ壮大な伽藍があったとされるが、詳細については分かっていないらしい。

他の寺が(飛鳥寺、薬師寺など)都が移るたびに藤原京、平城京、平安京と移転したのに対して、川原寺は当地に留まり、日本書紀などの文献にも出てこないという。
昭和に入ってからの発掘調査で、千数百体の仏様の朔像やレリーフが
出てきたという。
川原寺は「飛鳥四大寺」と言われるほどの大きさで、国家事業としての
「写経」が637年に日本で初めて行われた場所でもあるという。

現在は広―い広場になっており、子供達が凧揚げをしたりして楽しんでいる
のどかな風景だ。広場のそこここには大きな石の礎石が見られ、当時の大伽藍を想像できるようになっている。

川原寺の金堂があったと思われる場所に「弘福寺」は建っており、奈良時代のものと思われる十一面観音、持国天、多聞天、十二神将などの仏像が残されている。
これらは、ケースに入れられて守られたものではなく、1200年もの間
日々お寺の行を見守ってきた仏様だというのだ。
今も特に立派に保護された形ではなく、それほど広くないお堂の中に、
窮屈そうに安置されていた。

ここで、私たちは写経の時間を持った。初体験!!
般若心経を、たまに口にしたり耳にすることはあっても、全く覚えていないので、書き写すお手本をいちいちめくって見ないとよく分からない。
だいぶ昔には、お経を傍に置いて書き写していたように思うので、
それに比べたら大分楽なのだと思うが、ひたすら写すことに没頭した時間は、指が痛くなるのを我慢しながら、飛鳥の歴史に思いを馳せる
時間でもあり、その末端に位置する自分を改めて確認する時間でもあった。

写経したものは、いただけるのかと思っていたが、そうではなく仏様に捧げるものだった。・・そういうものなのね・・
年甲斐もなく、知らないって困ったものです。

弘福寺の境内には川原寺時代の礎石が残されている。
その礎石は瑪瑙(めのう)でできている。めのうといっても現代の瑪瑙と
言われるものではなく大理石のようだ。
「実際にその手で触れて見てください」と言われて、そっと触ってみる。う〜ん・・・飛鳥時代といえば、私の中では聖徳太子の姿が浮かんでくる。あんな衣装を纏った人々がここを歩いていたのね〜

レストラン・・ジュール フェリエ ラ・バンク
ホテルから歩いてレストランに向かう。
レストランは、旧第六十八銀行をリノベーションしたフレンチレストランで、登録有形文化財に指定されている建物だという。

とてもクラシックな雰囲気が好ましいレストランだ。
結婚式など催されているようで、普段着で椅子に座るのが
憚られような雰囲気だが、
そこは「大勢集まれば怖くない」・・・・・

お店の名前は休日の1日??とでも訳すのでしょうか。
オニオンスープも牛肉の赤ワイン煮込みもとてもおいしくいただいた。


2025・1・2(木)
旅の最終日、午前中徒歩で今井町の散歩だ。

今井町は近鉄八木駅の西側に広がる寺内町だ。天文年間、
一向宗本願寺坊主の今井兵部卿豊寿によって寺内町が
建設されたことに始まり、一向宗の門徒が都市計画に基づいて
「称念寺」
を開き、自衛上武力を養い、堀をめぐらしたものだ。
その後、信長から自治権を許され、大阪、堺などと交流を深め商業都市と
して発展した。

街は堀で囲まれていたため、九つの門があった。今では南口門を除いては残されていないのでタイルでその様子を残している。

内部の道路は見通しのきくものは無く、ほとんどが一度屈折させている。
これは敵の侵入に備えた城塞都市の形態をとって作られたからだ。

東西600m、南北310mと言われる街にはかつて繁栄を
極めたと思われる

米屋、酒屋、金物屋などが軒を連ね、今井町の大半の民家が江戸時代以来の伝統様式を守っており、街全体が戦国時代にできた寺内町の雰囲気を感じさせている。

左上は街の中心となった「称念寺」 下は今でも地酒を扱う酒屋

中でも年寄りの筆頭を務めた今西家住宅は、城郭のような様相をもった豪壮な建物ということだったが、時間の関係でこちらの見学は叶わなかった。

しかし、街の雰囲気は十分に伝わってきたし、この状態を維持するために
住民たちの苦労も大変なものだろう。家の修繕などの折りにも、色々の制約がかかり、住民の今井町への深い思い入れが、ひしひしと感じられる。
こういう市井の人々の努力に支えられて、日本の歴史が、
こうした形で保たれていると思うと、便利さを追い続ける現代、
時に立ち止まって今の生活を少しでも振り返る気持ちになれる。

今回の旅行はこれで終了。11:26発近鉄・大和八木駅を出発し、京都に向かい流れ解散。

何と言っても初体験、初知識と旅行はワクワク感と知的好奇心を刺激して
くれるのでやめられない・・・がそれと体力は別問題なので、我が体力と相談しながら、好奇心は持ち続けたいものだ。
総勢19名の旅だった。

エピローグ
京都駅で解散になったので、新幹線は余裕を持って夕方のチケットを取ってあった。

京都駅18:33発  光662号  小田原 20:38着

来年大学受験を控える孫がいるので、北野天満宮でお参りをし、お札を
いただこうと計画した。
ただ、旅行前にネット検索してみると、1月2日の北野天満宮は、大変混むことが判明、ひどいときは拝観までに3〜4時間かかるとある。

とてもそんな混雑している所へは無理と判断し、行き先を変えた。
これまたネットで検索し「文子天満宮」という場所を見つけた。
北野天満宮発祥の元となった社とのことだ。

道真は乳母であった多治比文子(たじひ あやこ)さんに
「右近の馬場に社殿を建てて祀れ」(現在の北野天満宮のある場所)との
お託宣をしたが、当時文子さんにその力がなく、自宅の庭に祠を作って
お祀りしたというのだ。
後に北野天満宮ができた時、文子さん自身が道真の御霊を北野天満宮に移したそうだ。

京都駅からタクシーを使ったが、歩いても10分ほどのところだ。
京都東本願寺の歴代門主隠退所として知られる、「渉成園」の近くだ。
住宅の中にひっそりとあり、地元の顔見知りの方が訪れている印象があった。

無事、お祓いとお札を頂いて用事を済ませたが、体力的にこれ以上の観光に気持ちが向かない。

新幹線のチケットを早い時間に変えられるのならば・・と期待を込めて案内所に行ったが、あいにく満席・・・そうですよね・・
1月2日の上り列車に空きがあるはずないですよね・・

京都を訪れた時には、いつも京都駅の伊勢丹でお土産を調達
しているので、行ってみるが、まぁ〜すごい人出で、身動きできないほどだ。
車内で食べるお弁当を買っただけで、逃げるようにデパートを後にし、駅ビルの中にお茶するところをみつけ、そこで時間までを過ごした。

無事帰宅したのは10時ごろ。
お疲れ様でしたけれど、とても有意義な旅でした。
健康に感謝!!!
                   終


4回のわたってお読みいただいた方々、ありがとうございます。
いつも自分記録として残す冊子ですが、noteを通して皆様に
お読みいただけるなんて、思いもかけない喜びです。
 
        

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