立憲共産党の自壊を煽るべし

立憲共産党の自壊を煽るべし
“シーチン”修一 2.0

【雀庵の「大戦序章」99/通算531 2022/10/8/土】10/1~3にカミサンは長女と共に軽井沢の星野リゾートでノンビリ秋を楽しんできた。まるでセレブ。小生は相変わらずペンキだらけの作業服で防水工事などの営繕、ま、趣味のようなものだが全然オシャレではないなあ・・・

<星のや軽井沢:野鳥の森の谷あいに、川のせせらぎに包まれて離れ家のような客室が建ち並びます。日本の原風景が鮮やかに蘇る敷地内を散策し、今も脈動する浅間山から湧出する源泉かけ流しの温泉を浴す。意のままに食事処を選び気儘に逗留する宿です>

1泊3万円あたりかと思ったら「まあね」と言葉を濁すので、調べたら2泊1室合計¥224,400(入湯税・サービス料別)・・・ゴージャスというか剛毅だが、1人2泊10万円ちょっとでリッチな気分になれるのなら妥当か。

そう言えばカミサンは今月に古希70歳。18歳で奄美大島から日本医科大学の病院で働きながら看護学校で学んで看護婦資格を取り、以来ほぼ50年、オタンコナースから出発していくつかの病院勤務を経て婦長さんになり、昨年の定年退職後は1年の御礼奉公をして10月いっぱいでリタイアする。曰く「引き留められたけれど、もう体力が続かない、やるべきことはやった、もう十分、後はノンビリ、好きなことをして過ごすわ」

看護学校同期の友4人と悠々自適で定年後を過ごすはずだったが、友の2人は天職を全うする構えで現役バリバリ、後進の育成に励み、1人はリタイアしたが孫たちの世話で忙しい、一番気の合った1人は3年ほど前に小生同様に胃がん全摘で食事が思うように楽しめない・・・かくしてカミサンの旅行パートーナーは稼ぎの良い旦那をGETした長女だけになったよう。

妻よ、古希祝い、退職祝い、よくぞ頑張った、おめでとう、そしてご苦労さまでした。そして晩年という新たな人生のスタートである。頑張ってきたのだからこれからは旅行でも趣味でも楽しんだらいい・・・邪宗以外は。

邪宗、邪教は概ね拝金教みたいな「オウム」や「統一教会」などの新興宗教が少なくないから要注意だが、一般的に宗教のようなものは信者ではなく教祖や幹部になる方が絶対に面白いのではないか。それは宗教に限らず、「フォロワーではなく10~20%のリーダーになった方が人生を楽しめる」と小生は思うのだが。

学者とか大学教授、識者には「俗欲」のない、行儀が良い、聖人君子が多いようだが、今の大学教授、特に理系の教授は「研究費を集める」のが主要な仕事になって、それをしないと肩身が狭い思いを強いられるようだ。日本の理系の研究者や大学はかつては世界でもトップクラスだったが、今は随分後退していると報道されており、大学の「経営」と「研究・学問」を切り離さないと劣化するばかりではないか。

劣化と言えば、かつては「日本の政治家は神輿に過ぎない、政治家の政策を操っているのは裏方の優秀な高級官僚だ」と1990年あたりまでは言われていた。確かに戦後復興から1960年以降の日本の高度成長は、ボンクラな政治家ではなく、彼らを担いだ省庁の事務次官をトップとする高級官僚がリードしたと言ってもいいだろう。

<現代の日本における「官僚」とは、広義では、国家公務員試験に合格して中央官庁に採用された国家公務員全般を指すとされている。狭義では、国の行政機関に所属する国家公務員の中でも、特に中央官庁の課室長級以上の管理職員を指す場合もある。

また「高級官僚」は、国の行政機関に所属する国家公務員の中でも、特に中央官庁の指定職以上の地位にある者を指すことが一般的である。

日常会話において「官僚」ないし「高級官僚」と言う場合、霞ヶ関の中央官庁で政策に携わる国家公務員、中でも国家公務員Ⅰ種試験や総合職試験等に合格して任官したキャリア公務員を漠然と指すことが多い>(WIKI)

官僚は「日本を導くのは我々だ、選挙次第で右往左往する政治家に国政を全て任せるわけにはいかない」という自負、誇りがあったろう。それには良い面もあれば悪い面もあったろう。しかし「政治の安定をもたらした」ことは確かだ。マキャベリが言うように国家国政は「安定>自由」なのだ。自由があふれて団結できなくなった国は右往左往、ダッチロールし、やがては強国に併呑されたり亡びたりするのが歴史である。

自称リベラル、実質アカは、本人が意識しているかどうかはともかく、正義や自由を叫びながら国家の弱体化、解体、世界革命による共産化を目指している人々である。この認識と警戒心がないと自由民主人権法治国は消滅しかねないのだ。

産経2022/9/22の元駐米大使・加藤良三氏の論稿「正論:安倍元総理の国葬と世界の視線」は、ジェントルマンの氏が「堪忍袋の緒が切れた」感じで、君子豹変、本気で反安倍のアカ=バカどもに「恥を知れ!」と怒り心頭だった。

氏は昨年「日米の絆――元駐米大使 加藤良三回顧録」を上梓、それによると「1941年生まれ。東京大学法学部卒。1965年外務省入省。 アジア局長、総合外交政策局長、外務審議官、駐米大使を歴任。2008年退官。三菱商事取締役、日本プロフェッショナル野球組織コミッショナーなどを経て、現在、日米文化教育交流会議(CULCON)委員長」。以下、氏の「正論」を引用する。

<【昭和35年の池田勇人演説】昭和35(1960)年10月18日の国会で池田勇人総理(党総裁)は、凶刃に斃(たお)れた浅沼稲次郎社会党中央執行委員長への追悼演説を次のように切り出した。

「ただいま、この壇上に立ちまして…私は、この議場に一つの空席をはっきりと認めるのであります。…その人を相手に政策の論議を行なおうと誓った好敵手の席であります。…今その人はなく、その声もやみました。私は、だれに向かって論争をいどめばよいのでありましょうか。

しかし、心を澄まして耳を傾ければ、私には、そこから一つの叫び声があるように思われてなりません。『わが身に起こったことを他の人に起こさせてはならない』『暴力は民主政治家にとって共通の敵である』とこの声は叫んでいるのであります」「私は、目的のために手段を択(えら)ばぬ風潮を今後絶対に許さぬことを、皆さんとともに、はっきり誓いたいと存じます」

そして浅沼稲次郎氏の友人がうたった「沼は演説百姓よ よごれた服にボロカバン きょうは本所の公会堂、あすは京都の辻の寺」という詩を引用して浅沼氏の人柄を偲(しの)び、「私どもは、この国会において、各党が互いにその政策を披瀝(ひれき)し、国民の批判を仰ぐ覚悟でありました」「しかるに、暴力による君が不慮の死は、この機会を永久に奪ったのであり…国家国民にとって最大の不幸…」であると結んでいる。

世界が政治、軍事、経済、自然災害、パンデミックと大きく揺れ動く実感は日本国民の多くも共有するはずだが、報道の多くが安倍晋三元総理の国葬絡みのものであることに筆者は違和感を覚える。

国葬の是非を巡る議論はあっていいが、まずもって前述の池田演説にあるようなイデオロギーや安易な政治的動機を超えた故人、特に目的のために手段を択ばぬ「凶行」「凶弾」に斃れたリーダーに対する哀悼の念が超党派的に示されることが「個人の尊厳」の確保を最大の課題とする民主主義の下での最小限の礼節ではないのか。

【品性風格を欠く拙い反応】今回の銃撃事件の原因・背景の究明に努めることは大変大事なことに違いないが、ものごとには仕分けと順序というものもあるのではないか。国葬の費用云々が今の段階で主要な課題、ニュースとしてかくも声高に論ぜらるべきことなのか。国葬への招待を断って欠席する旨を敢えてメディアに喧伝することが英雄的行為になるとでもいうのだろうか。

2020年台湾の李登輝元総統逝去の際の中国の反応を思い出す。環球時報編集長のコメントは「台湾の脱中国を推進したこの要の政治家はきっと中国の歴史で数千年の悪臭を残すだろうと思う」という趣旨のものだった。これをはじめとして中国からのコメントには哀悼の念の表明はなく専ら李登輝批判・非難に終始した。既に一方の「超大国」とされる中国にしては品性風格を欠く拙い反応だと当時感じたものである。

日本には伝統的に「死者を鞭打つ」ことを戒める(忌避する)倫理観がある。「水に落ちた犬を打つ」様な仕打ちや「反日教育」「反日無罪」の風潮には理不尽なものとして違和感を持ってきた。

まして国際社会における自国の地位を間違いなく高め、諸外国からの敬意を勝ち得た日本史上数少ないリーダーの「非業の死」に際してごく基本的で当然の「弔意」をプレーダウン(軽視)し、歪んだ「マイノリティ・コンプレックス」かと疑われる空虚に刺々しい言動を政治やメディアがプレーアップ(強調)する現状に虚しさを覚える。こういう倒錯した現状を駐日ジョージア大使から指摘され、たしなめられる(11日付産経)のは日本として恥ずかしいことではないか。

【自らの姿を思い返し】リーダーに対する反発が自由になされるのは民主主義の下では当然のことであり、いくら白熱しても構わない。

よく言われるアメリカの分断の場合も「親政権」でも「反政権」でもそのコインの裏は結局「親米」であろう。今回の国葬に絡む論議を見ていると従来の「反安倍」の要素が濃いように思うが、その裏が果たして「親日」なのか訝しく感ずるところがある。

国葬の是非・適否など議論があるなら粛々と続ければいい。筆者としては先に引用した池田演説のような抑制が利いて日本人の心に響くメッセージを永田町界隈からは聞きたいし、その精神を加味した均衡のとれた報道・論考をメディアには期待したいと切に思う。

エリザベス英女王、ゴルバチョフ元ソ連大統領の死去など、今年は時代の変化を象徴する訃報・出来事が多いが、安倍元総理の国葬を見つめる視線は、日本だけのものではない。

日本の文化は「恥」を最も嫌う文化といわれた。そういう感性を持ち続ける日本であるならば国葬に際して、国際社会の目に映る自分の姿を思い返して身なりを整えるくらいの余裕と心構えは持つべきだろう>(以上)

赤色ウイルス感染者はありとあらゆるところにいる。産経にもいる、自民党にもいる。本人も病識はなく、自分こそが健康であり正論居士だと信じている。説得しても無駄だが、群れる習性があり「孤立させると消滅する」傾向がある。

立憲共産党は斜陽を迎えた絶滅歓迎種だが、再起を図るため一点突破全面展開を狙っている。しかし、巨大な労組「連合」からも見放されつつあり、再起するためには同士であり心の祖国である「中露北」に日本侵略を促すしかないのだ。愛国者は我らの内なる敵、立憲共産党の自壊をしっかり煽るべし。
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