古老は「ただの高齢者」?

古老は「ただの高齢者」?
“シーチン”修一 2.0

【雀庵の「大戦序章」112/通算544 2022/12/8/木】日本による真珠湾攻撃(1941年)で火ぶたを切った大東亜戦争から81年、1945年の敗戦により米国の属国、オンリーさんになってから77年・・・

占領下で主権がないのに押し付けられた憲法を「安楽第一」で後生大事にしてきたのは、国防を米国に任せれば軍事費を最低限に抑えられるからだ。狡猾と言えば狡猾だが、自尊自恃の独立した国家とはとても言えない。今はそのツケが回ってきた感じ。

妹が暴走族だったというA君はガタイが大きく、怒った時に相手を睨みつける表情は大層迫力があった。座右の格言は「粗にして野だが卑ではない」で、「良識ぶっているが根性が汚い奴」をトコトン侮蔑し嫌っていた。

A君のご先祖様は銭形平次のような岡っ引(御用聞き、目明かし? 地元の侠客が兼任することも珍しくなかった)で、長くてずっしりと重い十手(断面は六角形)を家宝としていたが、自衛というより敵の骨、武器(刀剣)を砕く兵器そのものだった。

A君の自宅軒下の燕(つばめ)の巣に雛を狙って青大将が近づくと親燕がA君に「親分、助けて! 蛇が子供を狙ってる!」と訴え、ヨシキタ、ガッテンと蛇を駆除したそうだ。燕が「人間がいるところに蛇は来ない、万一来たときは人間に訴え駆除させよ」という安全保障策を持っていたことにA君はビックリしたという。

燕は日本、蛇は中共、蛇をやっつけるのはアメリカ? アメリカ依存・・・世界の警察官を辞めたアメリカにすがるなんて最早時代錯誤も甚だしい、と小生は思う。

A君の格言の原点は城山三郎著「石田禮助の生涯 粗にして野だが卑ではない」である。<第五代国鉄総裁の石田禮助は、総裁在任中に勲一等を贈るといわれ、「おれはマンキー(山猿)だよ。マンキーが勲章下げた姿見られるか。見られやせんよ」と言って固辞した。

国鉄総裁になり、はじめて国会へ呼ばれたとき、石田は代議士たちを前に自己紹介した。「粗にして野だが卑ではないつもり」。石田は長い生涯を、ほぼその言葉通りに生きた。

三井物産に35年間在職し、華々しい業績をあげた後、78歳で財界人から初めて国鉄総裁になった。明治人の一徹さと30年に及ぶ海外生活で培われた合理主義から“卑ではない”ほんものの人間の堂々たる人生を著者は克明な取材と温かな視線で描いた>(アマゾン)

小生は自分自身を、ムショ帰り、精神病院帰りの何をするか分からない奴、「粗にして野だが奸でもある」と恐れている。「奸」と言っても「敵に対してはよこしまで悪賢い、謀略を辞さない奴」というレベル・・・まあ、怪しい人格ではあるが、危機感ゼロのノーズロより遥かにマシだと思う。

世の中には「知にして優だが理ではない」とか、「衣食足りて礼節を知る」のではなくて「衣食住足りて知を忘れる」という人が随分多くなったような気がする。「無私の精神で国難に立ち向かう」とかは最早死語か?

小生は石田博英とも縁がある。<石田博英(いしだ ひろひで、1914/大正3年12月12日 - 1993/平成5年10月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(14期)。通称は名を音読みした「バクエイ」。所属した自由民主党では1969年から1971年まで党内派閥の二日会を率いた。

政務では労働大臣(第14・17・18・22・23・39代)、運輸大臣(第47代)、内閣官房長官(第16・17代)を、衆議院では議院運営委員長(第6代)などを歴任した。

来歴:秋田県山本郡二ツ井町(現能代市)で生まれ、大館市で育つ。祖父は花岡鉱山を開発した鉱山師。父は大阪造幣局の冶金技師だったが、第二次世界大戦後に栄養失調のため死去した。

早稲田大学政治経済学部に入学、在学中に恩師の吉村正(政治経済学部教授)に連れられて、三木武夫の選挙応援に関わり三木の知遇を得る。三木の選挙戦では、選挙民に嘲笑されてはならないと父親のフロックコートと山高帽を借りて、三木を自転車に載せて街頭演説を行った。

1939年に早稲田大学を卒業して中外商業新報(のち日本経済新聞)に入社、政治部に配属されて上海支局長や政治部次長を務める。1947年、第23回衆議院議員総選挙に日本自由党公認で旧秋田1区から出馬し、初当選した。

当選同期に田中角栄・鈴木善幸・中曽根康弘・増田甲子七・中山マサ・松野頼三・荒木万寿夫・原田憲・園田直・櫻内義雄・根本龍太郎・中村寅太らがいる。

1956年の自由民主党総裁選挙で、石橋湛山陣営の選挙参謀を務める。石橋、石井光次郎、岸信介の3人が立候補した総裁選挙では熾烈な派閥抗争や金権選挙が繰り広げられ、後の自民党総裁選のパターンを形成する悪名高いものであったが、石田は金をばら撒く代わりに、ポストの空手形を乱発した。

石橋総裁の誕生に大きく貢献した石田は石橋内閣において、史上最年少で内閣官房長官に任命され、初入閣する。総裁選で石橋を支持した池田勇人は大蔵大臣に、三木武夫は自民党幹事長に起用されたが、石橋の病気によりわずか2ヶ月で内閣は退陣した。

石橋の退陣により発足した第1次岸内閣でも引き続き官房長官を務め、第1次岸改造内閣では労働大臣に横滑りする。労働組合に対しては厳しい姿勢で臨み、頻発する炭鉱ストを違法ストに認定して抑え込んだ。

第2次岸内閣発足に伴い一旦労相を退任するが、第1次池田内閣で三井三池争議の収拾のため、再び労相に任命される。皇居での認証式を終えた石田は、モーニングを着たまま九州の三井三池炭鉱に飛び、事態の収拾に奔走。中央労働委員会の仲裁裁定完全実施の慣行や、ILO87号条約批准問題に取り組み、戦後の労働行政の発展に大きく寄与した。

1976年に自民党内から三木おろしの嵐が吹き荒れる中、反三木の閣僚らを更迭して発足した三木改造内閣で運輸大臣に任命され、一時は派内から追われることとなった三木首相を支える。

三木の退陣を受けて発足した福田赳夫内閣で4度目の労相を務める。1983年の第37回衆議院議員総選挙に出馬せず政界を引退し、旧秋田1区の地盤は参議院議員から鞍替えした野呂田芳成が引き継いだ。引退後に大館市名誉市民の称号が贈られた。1993年10月14日に死去。78歳没>(WIKI)

石田博英が1983年に隠居すると、秘書なども“お役御免”になったのだろう、その頃小生が勤めていた航空新聞社(メイン媒体「週刊WING」の読者は空自、航空機メーカー、商社、航空会社、空港関係者、国会の防衛族)に石田博英の秘書だったHさんが入社し、営業部長(新規顧客開拓担当)に就いた。小生は一緒にクライアント廻りなどをしたが、切羽詰まると「石田労政」を持ち出して滔々とクライアントに説いていた。その頃Hさんは膝を痛めていたので杖をついていたが、普通の杖ではなくナント木刀だから、もろ、ユスリタカリの怪しいブラックジャーナリズムみたいでナンカナーの感じだった。本人は「杖なんか買うには及ばない、家にあった木刀で十分、すぐに治ってみせる!」という気概だったのだろうが・・・

ここまで書いたら、ハタと気付いた。年をとるとリタイアして年金暮らしになり、社会との交流がずいぶん薄れるから昔のことを思い出す、というか「昔(過去)に生きている」ようになるのかもしれない。面白いなあ、老化とはそういうものなのだろう。

それにしても、人間は物質文明は継承するが、「いかに生きるか」の哲学はほとんど継承しないのはどいうわけか。哲学は概ね自己抑制を伴い、学問、思考、清貧を重視するので辛気臭いから、「面白おかしく暮らしたい」という一般的なニーズに沿わないのかも知れない。

村の長老、街の御隠居は「経験が豊富」ということで敬意を表されていたものだが、1960年代からの日進月歩の経済成長により「古老の知見≒老人の古臭い繰り言」と徐々に侮られるようになってしまった感がある。バラマキ的な福祉政策もあって飢餓、貧困がなくなり、「古老の説教に耳を傾ける」なんていう言葉も死語のよう。古老は今や「ただの高齢者」になってしまった。

我が父(1922/大正11年生まれ)の世代は戦後復興に必死で働き、お陰で小生はオヤツは蒸かしサツマイモか朝食の残り冷や飯があり、飢えを知らないで育ったが、1960年代中頃まで周囲には貧しさ、清貧がまだあった。万引きを疑われたオバサンが「貧乏していても物を盗むなんてことはしません」と泣いて抗議していたのを見たことがある。当時は「生活保護の受給は恥」という見方がまだあった時代だ(今は「生保は当然の権利」と思って(えばって)いる人が多いよう)。

小生の子供3人は1980年代生まれだが、オヤツはクッキーや菓子パン、カステラ、アイスクリームなどで、食糧事情は俄然向上していた。1985年からのバブル景気、その後の景気後退、IT時代・・・一進一退はあったが、2001年のイスラム過激派アルカイダによる9.11米中枢同時多発テロまで日本経済はまあまあ元気だった。2001年、21世紀からのこの20年、日本は低成長で何やら“斜陽”である。

古人曰く「登りつめたら下り坂」。祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。娑羅雙樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ・・・そしてまた古人曰く「落ちたところが上り坂」。

永遠の繁栄、永遠の貧困もない、ということで、まあ人間は命を繋いできたのだろう。G7とかG20の諸国は21世紀の世界的な景気後退で高度成長は難しくなっているが、経済というのは基本的に成長→停滞→後退→成長を繰り返すようだ。栄枯盛衰世の倣いか。

我が地元を見渡すと、親が建てた家で息子が結婚せずに一人暮らしとか、土地に戸建て住宅を幾つも造り、それを売却して左団扇で暮らすとか、家を建て直してマンションなどのビルにして家賃収入で暮らすとか、あるいは趣味でそのビルの1Fは喫茶店、花屋などを開くとか、結構な金持ち階級(ブルジョワジー、資産家、上流階級?)が増えている。

彼らはおっとりした顔つきで、必死で働くという感じはまったくない。ハングリー精神とは程遠い。みんな高学歴みたいで“3代目”の風情、何となく貴族、ハイソサエティー。そう、野生の臭いがしない、怪しさが全くないという感じ。小生は自分では「怪しいヂヂイ、怪老」を演じるようにしているが、カミサンに「最近はスーパーのレジのお姉さんがサッカー台までカゴを運んでくれる」と言ったら、「アンタ、どう見たってよぼよぼのオヂイさんよ」だと。華麗なる加齢・・・小生には縁がなさそうだ。

それにしても古老は「ただの高齢者」、厄介者になりさがったのか? そういう時代潮流に激しく抗う、「老いたりと言えども舌鋒鋭く敵を叩く」というヂヂイではありたいなあ。多くの先輩達のように気力体力が続くまでは書きまくりたい。老兵は去らず、撃ちてし止まん! 老害かも知れないが、ボケ防止にはなるね。
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