危機意識をもった宰相出でよ

危機意識をもった宰相出でよ
“シーチン”修一 2.0

【雀庵の「大戦序章」96/通算528 2022/10/1/土】夏場は4時半頃から明るくなるが今は5時15分あたりになった。彼岸花が咲き誇る初秋からやがて「秋深き 隣は何を する人ぞ」なにやら人恋しくなる季節であるなあ。

あっという間に10月、加齢とともに光陰矢の如し、この毎日あれこれヒーヒー言いながらもDIYを結構楽しんでいるが、創意工夫でそれなりに家屋や庭が綺麗になるのは良い運動にもなる。オツムの活性化にもなるよう。元気なうちにやるべきこと、やりたいことはそこそこ始末しておきたいものだ。

加瀬英明先生の論稿メールが途絶えているので「大丈夫か」と心配していた。86歳だからいつお呼ばれがあってもいい年頃だが、9月28日に久し振りに「記念切手の一枚のご褒美」のタイトルの論稿が届いた。以下転載する。

<8月8日まで、50日にわたる不本意な入院から帰宅したところ、中島繁治兄貴から
注文の矢が届いたので、俗界に戻れて大いに励まされた。

緊急入院で全身麻酔をかけられ腰部の手術をうけていたあいだに、安倍元首相が殺害され生死の奈落を迷っていたので、ごく親しい人であっただけに、いまでも現実だったと思えない。

私の腰部の故障が始まったのは8年前のことで、20日あまり車椅子に乗っていた。このあいだ広島県江田島の海上自衛隊第一術科学校で講演する約束をしていた。旧海軍兵学校があった聖地である。前の晩に着いて学校幹部と会食することになっていた。この前の時間を活用して、松井一實広島市長におめにかかったことがなかったが、ぜひお話をしたいと電話をして、快諾をえた。

私はイタリアのベスビオス火山の噴火によるナポリを「人類史最大の天災」、広島を「人類史最大の人災の街」として、姉妹都市の絆を結ぶことを提案した。かねてからイタリア大使の内諾をえていた。

市長は私の提案に同意してくれたが、市議会の賛同を必要とするといった。ところが、この後、この話は立ち消えた。米国の不興を買うといって、外務省が反対したときいた。ナポリと広島が姉妹都市関係を結んだら、全世界が大喝采したにちがいない。

私は小さなことでも、世界や日本に役立つことを実現させようとつとめてきた。その一つが、軍人への敬意を復活するために、前大戦の帝国軍人の銅像を建立することと、もう一つが、軍人の郵便記念切手を発行することだった。

その好機がやってきた。昨春、親しい樋口隆一明治学院大学名誉教授が私の事務所に寄って、祖父・樋口季一郎中将の石碑が生地の淡路島に建立されることになったと話した。

樋口中将といえば昭和12(1937)年に、少将として満州哈爾浜(ハルビン)特務
機関長だった時に、ヨーロッパから2万人といわれるユダヤ人難民がナチスの迫害を逃れてきたのに対して、満州国入国を許した勇断によって知られる。私は中央公論誌(昭和46年5月号)の『日本のなかのユダヤ人』で、書いている。

私は樋口教授に「石碑ではつまらない。少将が救ったユダヤ人にも呼びかけて、銅像にしよう」といった。そして昨年7月の産経新聞に「日本の名誉を守るため 樋口季一郎中将の銅像を建立しよう」という広告を掲載したところ、その月以内に全国からたちまち銅像一体を建立するのに必要な2千数百万円以上の寄付が集まった。

広告の呼び掛け人として、在京ユダヤ教会のラビ・メンディ・スダケヴィッチ師、私の多年の同志であるユダヤ人戦略家のエドワード・ルトワック氏も加わった。銅像はこの月に完成し、かつて満州里で将軍によって救われたユダヤ人の孫たちも参列して、除幕式が行われる。日本郵便によって戦後軍人最初の84円の記念切手も、発行された。

銅像の建立などの発表を、関係者が都内のホテルに集って行う日の朝に、私の腰に激痛が走って、行事をいっさい同志に委ねて、集中治療室に向かった。

50日後に、84円の樋口将軍の記念切手の小さな褒美を手にして退院した。(中島兄貴は日本大学OB誌の編集長)>(以上)

小生が樋口季一郎中将を知ったのは今年の春だった。産経ロンドン支局長を務めていた岡部伸氏の「至誠の日本インテリジェンス - 世界が称賛した帝国陸軍の奇跡」(2022/2/22)所載の「ユダヤ人を救い、日本分断を防いだもう一人の『東洋のシンドラー』樋口季一郎」を読んで、「戦時であれ平時であれ諜報活動は国家の耳目だ」とえらく感銘を受けたものだ。まえがきで岡部氏はこう紹介している。

「第2次大戦直前、ナチス・ドイツの迫害から約2万人のユダヤ人を救い、終戦時、第五方面軍司令官として千島列島の占守島や樺太でソ連軍との自衛戦闘を指揮し、ソ連の北海道侵攻を阻止した樋口季一郎中将」

加瀬先生が兄貴と呼んでいる「中島繁治」氏は小生は初めてお目にかかる。ネットで調べると――

<1937年生まれ、著書に「三十数年有余、国会・首相官邸を駆け抜けた中島繁治編集長の年輪」がある。昭和22年5月設立の「日本地方新聞協会」会長に平成14年6月就任。

同協会の設立趣旨は、「日本国が民主的な平和国家として歩むために、新聞に課せられた使命は大きい。特に地方新聞は日本全国の政治、経済、文化の向上発展に寄与し、ともすれば中央集権に陥りやすい弊害の除去にも努力しなければならない。このため全国の地方新聞社は団結し、日本地方新聞協会を設立し加盟各社が新聞道として実践すべき自由、正義、公平、責任、奉仕の精神を『地方新聞倫理綱領』にして定めた」。

氏は2015年に「日本名書出版」を立ち上げ、明治の雑誌「太陽」の復刻版などを刊行したが、2019年に廃業した>

なぜ「太陽」の復刻版に力を入れたのか。WIKIなどによると「『太陽』は博文館が1895年(明治28)1月に創刊した日本初の総合雑誌」。欧米に遅れ文明開化した日本帝国が先進国に追い付け追い越せと富国強兵を進め、1894年(明治27)7月には日清戦争が始まった。日本人が「国民」として初めて団結し愛国心が高揚した時期に創刊された月刊誌「太陽」は大好評で、月に2回発行することもあったという。

1917年のロシア革命前後に日本でも自由民主主義、共産主義、個人主義などの思潮が高まり「大正デモクラシー」が謳歌されるに従い、古き良き明治の「太陽」は時代思潮に迎合することなく地平線の彼方に沈んでいったのだろう。

中島繁治氏は「坂の上の雲」を目指した青年のような日本の気概を「太陽」の復刻版で我々後輩に遺そうと意図したに違いない。加瀬氏が一つ下の中島氏を「兄貴」と呼んでいるのも中島氏の気概に敬意を表しているからだろう。

大正デモクラシー的な「脳内お花畑的容共自称リベラル」は今なお生き延びている。「太陽」は何となく今の月刊「文藝春秋」みたいだ。同誌は戦後リベラルを称揚して一時期は100万部もあったのに今や発行部数平均は37万4000部(2021年1~3月)。ITによる活字離れも大きいが、戦後リベラルの読者が昇天して今は立憲共産党のような悪あがきのアカが朝日、毎日と共に読んでいるくらいではないか。絶滅危惧種だが「まだ生きている?!」と小生は“我らの内なる敵”にウンザリさせられるが、先進国は似たような状況にある。

宏池会の岸田文雄政権も根っこが中露北の共産主義独裁体制を容認する似非リベラルなのだろう、小生は「岸田とその一派では赤色独裁との戦いはすこぶる危うい」と呆れているが、安倍氏の遺志を継ぐ政治家は今のところ見えない。屋山太郎先生(日本戦略研究フォーラム会長/政治評論家)の「見当違いの岸田内閣」から。

<新しい内閣が発足したのだから、政策の内容ややり方に新しい方法もあるだろうと見ていたが、この岸田内閣はとんでもない方向を向いて歩いていることに気付いた。

安倍政治が創り上げたものを絞れば2つある。1つは日本の官僚政治体質を根本から変えたこと。もう1つはその元になっていた財務省支配を終わらせたことだろう。

官僚を握っていたのは財務省(大蔵省)で、防衛省を庁のまま据え置いて、防衛次官を自省でとるというような姑息な支配権を確立していた。その辺の橋の予算まで指示できたから、全自治体の首長から普通の公務員までが大蔵省になびいていた。国会議員なども大蔵省の官僚に指示されればいいなりだった。入社試験に当たって、「日本は三権分立の国」と覚えたが、官僚独裁のような国家だった。

これを政治指導にするために、必死に工作したのが安倍晋三氏である。安倍氏が決め手にしたのが、内閣人事局の設立である。各省300人程度の参事官クラス以上を対象に、政治の側が任命権を持つ。「この人物は局長、次官にふさわしくない」と判定されれば次官街道をまっしぐらでも外されることがある。

安倍氏はこの手口を使って、安保制度を充実させようとして、防衛省、財務省など各部署からベテランを揃えた。安全保障政策のコアとなってグループを率いてきたのが防衛省の島田和久事務次官だった。島田氏は首相秘書官を6年半務め、防衛費の国内総生産(GDP)比2%を求める旗振り役だった。岸田氏はその島田氏を更迭したのである。安倍氏は「最低3年はやるんじゃなかったのか」と大不満だった。

岸信夫防衛大臣は続投を求めたが、官邸側は就任2年での交代が慣例といってクビにした。代わりに就任した浜田靖一氏の安保観をどれほど信用することができるのか。JBIC(国際協力銀行)の新総裁人事も林信光氏に決まった。財務省が必死に狙っていたポストだ。

海上保安庁新長官も生え抜き続きをやめて国交省キャリアの石井昌平氏がカムバック。その他、天下りポストを網羅的に調査して貰いたい。官僚制度の構造改革とか天下り反対といってきた安倍哲学は潰えかかっているのがわかるだろう。

防衛省は予算の権限を軸に、膨大な権利権益を積み上げてきた。この権限の強さ、大きさは政治家をはるかに上廻っていた。ここ30年ほどで、国鉄の分割・民営化や郵政の民営化など、「官」の体質は相当に変わった。行きつく先に安保法の一層の強化、憲法改正がほの見えてきたが、岸田首相は自らの立場を知っているのか。自ら踏み潰しているのではないか。

財務省が予算について、注文を受けないというのは、予算に注文をつけたい政治側の要望に合わない。政治家が自由にできる予算も作れるようにせよというのが安倍氏のアベノミクスだ。(令和4年9月28日付静岡新聞『論壇』より転載)>

「雀百まで踊り忘れず」、宏池会育ちは年輪を重ねたところで雀は雀、小生が「凄い奴だ」と敬意を表する隼(はやぶさ、falcon:ファルコン)にはなれない。WIKIにはこうあった。

<宏池会(こうちかい)は、自由民主党の派閥。吉田茂の直系の弟子である池田勇人が佐藤栄作(安倍氏の叔父さん)と袂を分かって旗揚げしたのが始まりで、2022年8月現在において、自由民主党内で最古の派閥である。

元来、池田を取り巻く官僚出身の議員やスタッフを中心に形成されたという沿革もあり、今日に至るまで政策に通じた議員が多く在籍する。しかし「政策に明るいものの政争に暗い」と評され、「公家集団」と揶揄されることもしばしばみられる。

創立以来、池田・大平正芳・鈴木善幸・宮澤喜一・岸田文雄の5人の内閣総理大臣・自民党総裁を輩出してきた。

「宏池会」の名は、後漢の学者・馬融の「高光のウテナ(木篇に射)に休息し、以て宏池に臨む」という一文(出典は『広成頌』)から、陽明学者・安岡正篤が命名したものである。池田勇人の「池」の字、池田の出身地である広島の「ひろ」を「宏」に掛けているともいわれる>

池田の所得倍増政策以来の伝統なのか、「国家は儲かればいい、国民が美味しい生活を楽しめればいい、外交や安全保障は米国にお任せ」という商人的思考があるようだ。平時にはそれでも良かったかもしれないが、激動の時代には亡国を招きかねない。良識を備え危機意識をもった宰相が出て来るのを待つ・・・天に祈るしかないのか? 考えるとブルーな気分になる。
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