「好きなことがあるって羨ましい」〜私と音楽〜
中学生の頃、日々の日記を書いて担任の先生へ提出する「生活の記録」という冊子があった。物好きな私は、担任の先生に書くだけでは飽き足らず、級外(担任を持っておらず、学年全体を指導する)の先生にも別のノートに綴ったものを提出していた。
ある日、その日記に部活動でやっていた吹奏楽(クラリネット)への熱い思いを綴っていた私に、先生はこうコメントした。
「好きなことがあるってとても羨ましい。素敵なことだよ」
当時の私はこう思った。
「好きなことくらい誰にだってあるだろう。羨ましいと思われるほどのことではないのではないか」
と。
大人になって○年。やっとその意味がわかってきた。
当たり前だが何年も生きているといろいろなことが起きる。人付き合いがうまくいかなかったり、仕事でトラブルが起きたり、家族とすれ違ったり。そんな時、「好きなもの」は心に栄養を与えてくれる。私にとってそれは「音楽」だ。
大人になっても私は吹奏楽を続けている(今は諸事情により休業中だが)。仕事が苦しく辛いものになったとき、休日に吹奏楽の練習にいくと、いつもと変わらない仲間達と音を奏でる時間が始まる。自分にこの時間は必要だなぁと思うものだった。
またある日、心穏やかでない夜にはそっと電子ピアノの蓋を開け、ポロポロと音を鳴らしてみる。気がつけば1時間以上経っていたなんてことも数知れない。さっきまでのざわざわとした心はどこへやら。
ただ、音楽から距離を置きたくなったこともあった。忙しくて音楽どころじゃなかったり、練習に行くことが億劫だったり、人と会いたくない心境だったり、生きることに疲れていたり、なんとなくだったり。でも結局いつも音楽が私を放してくれない。音楽に戻ってきてしまう。気がついたら家の中で歌を口ずさんでいる自分がいるのだ。
それは時に吹奏楽であり、時に歌であり、ピアノであり、映画音楽であり、J-popであり。形は違えど私の血が騒ぐのはいつも音楽。腐れ縁のような存在なのかもしれない。
鬱病で療養中だったときも、コロナの後遺症で療養中の今も、私のそばにはなんとなくいつも音楽があって、わざわざ探しに行かなくてもすぐそこにいてくれる。
子どもの頃は当たり前の存在すぎて、「音楽が好き」だということも「音楽が好きでいることのありがたみ」にも気づかなかった。大人になってやっと、いろいろな局面で音楽の存在が見えてきたんだなぁと思う。
あの時「羨ましい」と表現してくれた先生の気持ちが今ならちょっとわかる。だってもし、私の人生に音楽が存在しなかったらどんな自分になっていたかわからないから。
これからの人生もきっと、音楽が私を放してくれないと思うし、私も音楽を好きでい続けると思う。本当に好きなものは、特に努力をしなくても、ほっておいたとしても、そばにあり続けるものなのかもしれない。
演奏するのも好きだし聴くのも好き。最近は曲を作る面白さも知った。形にとらわれず、今やりたい音楽を表現していきたい。
そんなとある夏の日の戯言。
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