古本屋になりたい:51 奥泉光が待ちきれない
学生の頃には興味がなかった近現代史に、最近興味があって、というのは、歳をとった証拠だろうか。
友人からも同じような言葉を聞く。
辛気臭くて小難しくて、やたら覚えなければいけない年号が多い上に、現実に近すぎてロマンが感じられない、と思っていたほんの少し「昔」のことを、流石にちょっとは知っておかなくてはマズイ、と思い始めてからが大人なのかもしれない、と考えたりする。
奥泉光の「虚史のリズム」が出ていることに気づかないで一月余り過ごしていた。
本屋のない町に戻り、仕事帰りに毎日でも書店に寄れた日々を手放したのは自分なのだが、こういう時、とてももったいないことをしたような気分になる。発売日に買っても寝かしている本の方が多いくらいなのだから、何ももったいないことはないのに、損をしたような気がしてしまうのである。
先日罹ったコロナウイルスの後遺症というのか咳が治っても気だるさが抜けず、金曜の夜、この一週間ずっとそうだったように、晩御飯を食べて洗濯物を部屋干ししたら、寝具にだらっと寝そべってしまい、ふと気づくと夜中の1時、メイクを落として歯磨きをして寝直し、次に目が覚めたのが早朝の4時。
もう寝られない、というか睡眠時間は十分にとったので諦めて起き出し、正確にはまだ寝具に寝そべりながら、眼鏡もかけず目を細めてスマホで新聞を読む。いつもは大見出しをざっと見るくらいで済ませてしまうが、土曜の朝刊は書評ページを楽しみにしているので、寝転んで持つスマホの角度で記事が縦になったり横になったりするのを、固定するのも面倒で首を縦に維持することでスマホの縦を維持しつつ、視力が悪いのでところどころ拡大しながら、書評コーナーに辿り着いた。
ざっと目を通したり立ち止まってゆっくり読んだり、興味のままに進めながら、3ページ目のはじめに紹介されている本のタイトルだけを見て、本文を読み出し、なんか奥泉光みたいだな、と思ったら奥泉光だった。これはもう書評は読まなくても良い、というかあえて読まないと思って、そのままAmazonに行き、もう一月も前に出版されていたことを知ったのだ。
hontoの通販が終了してから、どこの通販サイトで本を買うか迷うようになった。これはそこそこの規模の本屋が近くにない多くの人にとって、共通の悩みではないだろうか。
アカウントを持っているAmazonが手っ取り早いが、本が裸で段ボールや紙袋に入って無造作に送られてくるのが少々辛い。たまに表紙が破れていることがある。詰め物のつもりのくしゃくしゃの紙が、余計に中身を傷つけているのだ(なにか、新しいことわざになりそうだ。あるいは古いことわざにもうある。)。
透明のビニール袋に入れてテープでみっちり止めて、丁寧すぎるくらい丁寧に梱包してくれていたhontoが懐かしい。過剰包装?まあそうだったかもしれない。
本の通販が事業のスタートだというAmazonの梱包は、ああいう感じでもペーパーバック主体のアメリカでは気にならないんだろうな、と思いながら、1000ページ超、5000円超の重量物である奥泉光の新刊「虚史のリズム」を綺麗なままで手に入れるには本屋に行くしかあるまい、取り置きかあ、ネットで取り置きするのにまたアカウント作るのもなあ、とダラダラするのに慣れてしまった体で考える。
ジュンク堂の通販はどうなったんよ?秋からスタートって言ってなかったっけ?と調べてみると、すでにホームページが出来ていた。通販できるものだと思って、hontoのカードとの連携を済ませてみたら、まだ店舗での取り置きしか出来ないようだ。
最近よく行く最も近い天王寺の店舗には、在庫がなかった。書評でも紹介されたし、これはますます品薄になるなと、いつ遠出(というのも大げさなのだが)する気になるか分からないけれど、梅田の丸善ジュンク堂で取り置きをすることにした。だいたい一週間、取っておいてもらえるようだ。
この日ネットで取り置きをした時は、連休中の明日か明後日行こう、久しぶりに梅田に行こう、とやる気に満ちていたのだが、いざ日曜日になるとなんか混んでそうだし暑いし、敬老の日の月曜日はとてもだるくて、二度寝してしまい、もういっか、と諦めた。
しかし、たとえ会ったことのない人でも、好かれなくても良いがわざわざ嫌われたくはない。相手がコンピューターやAIでもだ。
だいたい一週間取っておいてもらえるなら、次の休みの時に取りに行こう、それなら約束を破る人ではなくちゃんとした人の部類にいられるだろう、必ず行きますんで、と誰だか分からない相手に私は誓った。いや、コンピューターの指示に従って、本棚や書庫から一冊取り出し、レジ近くに置いてくれた書店員さんに誓った。
コロナでダラダラした話を書きたかったわけではない。
近現代史への興味の話である。ここ10年かもしかしたらそれ以上、日本の近現代について考えるようになったのは、本格的に奥泉光を読み始めたからだと思うのだ。
文庫になったばかりの頃「鳥類学者のファンタジア」を読んで、しばらく間が空いて、どれを読んだのだったか同じ作者だと気づき、生真面目さとユーモアのバランスが好みだと思った。新刊を楽しみにすると共に、過去に出たものをブックオフで探して遡って読んで行った。
現代や近未来が舞台のものもあるが、明治から昭和、第二次世界大戦後くらいまでの話が多い。その多くが軍内部にいる(いた)者の視点で描かれながら、愛国主義的でなく、ただ悲劇的でなく、御涙頂戴でなく、平和讃歌でなく、かと言って事実の羅列ではなく、何より奥泉光的であること。これが奥泉光の良いところである。「良いところ」なんて子どもじみた書き方のようだが、私はそういうものを求めて奥泉光を読んでいるから良いのだ。また光る猫が出てきて欲しいし、今回もオルフェウスの音階が出てきて欲しい。同じモチーフを繰り返して欲しい。
一般の人が書いたレビューで読んだ「同じような話」みたいな批評はあたらない。もしそんなことを言ってくる人が目の前に現れたら、ゴッホはひまわりばかり描いたでしょ、という捻りもないベタで分かりやすい(でもほんとのところ奥泉光のモチーフの繰り返しの例えにはなっていない)反論を用意しているのだが、残念ながら、まだ奥泉光を読んでいる人と話したことがない。なので、読んでいる人に会えただけで嬉しくて、ですよねー、と迎合してしまうかもしれない。
若い頃筒井康隆をよく読んで、最近は万城目学なども読む父には「坊ちゃん忍者幕末見聞録」を貸して、どうやってこんな本見つけてくるんやー、と嬉しい評価をもらったが、そんな父にも奥泉光の他の本は勧めていない。多分父は、奥泉光のユーモアは気に入ってくれたと思う。
こう読め、こう泣け、という指示はない。こう解釈しろ、の押し付けもない。ただ読んだ後、またこの人の書くものが読みたいと思う他に、知りたいな、と思うことが増えるだけである。
先日の三連休中に、梅田の丸善ジュンク堂に取り置きの「虚史のリズム」を引き取りに行った。ネット取り置きから店舗で購入するとポイント5倍だとかで、行って良かった。
近く閉館するとニュースになっていた梅田ロフトはまた今度にしよう(滅多に行かなくなっているのに、なくなるのは寂しいと思っているクチである)と、手に食い込む紙袋の重みを感じながら、ホクホクして帰路についた。
もちろん、本屋に寄って一冊の購入で済むわけもなく、紙袋にはもう一冊、「お母さんは忙しくなるばかり 家事労働とテクノロジーの社会史」と言う本が入っていた。こちらは奥泉光じゃないですが、どうです、面白そうでしょう?書いたわけでもないのに自慢である。
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私のこの文章を読んで奥泉光を読みたいと思う人は余りいないと思うけれど(長いし、ここまで読んでくださってありがとうございます)、初めて読むならリストを付けておきます。
・シューマンの指
・桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活
・プラトン学園
・雪の階
「グランドミステリー」や「神器」もオススメですが、かなり分厚い・長いので、手に取りやすいものを選びました。「雪の階」は分厚いですかね。
ジャズ、クラシック音楽、将棋、学園、猫、戦争、など多くの作品に共通するモチーフが登場します。
どれも奥泉光でしか味わえない、代わりの効かない稀有な作品ばかりです。