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無限に成長を遂げるものは存在するのか?

皆様こんにちは。久々の投稿となります山の手の丘の大学生です。
春休みに突入したことから時間に余裕ができたため漢詩をたくさん読書していたらとある作品のある箇所に目が留まりました。それが『典論論文』の第5段落目です。

この箇所に込められているのは「主に人間の生命や思考は限られた時間のみにおいて成長を遂け、いずれ終わりが訪れることから有限づけられたものである。それは文学においても同じであり、とある作者によって著される作品が人々の魅力を掻き立てる状態へ成長し続けるのは主に作者自身の才能が最盛期に至る頃までに限定されている。そのため、いずれは成長が途絶えて枯れ果ててしまう。こうしたことから我々は人生という有限づけられた期間においていかに才能などを開花させ、生き様を立派にさせるかが重要である。そのように考えられるにも関わらず作者のほとんどは政治情勢など比較的他の作者と話題の趣旨が被りやすい内容を著す傾向が強く、そんなものとはかけ離れた圧倒的に自我を発揮させることができるような生粋のオリジナル作品を生み出していくべきである。」というメッセージです。
そんなことを読み込んだ上で私自身も有限づけられた人生を悔いのないようにありとあらゆる手段で充実させようと考えたのはもちろんであるが他にもこんなことを考えてしまいました。
確かに有限は人間に限った話ではなく、人間以外の動物や植物、食物、建物、乗り物、道具、或いは私たちが視聴しているテレビ番組など有形なものから無形なものまでの様々が有限であります

じゃあ逆に永遠に存在し続け、かつ成長を遂げ続けるものはいったい何であろうか?


約3日間ほど考え続けた挙句思いつきました。それがこちらです。

歴史の教科書!!


いったいどうしてこのような考えに至ったかというと歴史というものには終止符が存在せず、暮らしや文化が存在している以上は永遠に新たな出来事が追加され続けることにより新たな歴史街道が延伸され続けます。よって、歴史の教科書もこの先掲載せざるを得ない出来事が増え続けることに応じてページの厚みがどんどん増していきその挙句は辞書や長編文学を超えるほどの大きなものとなることが予測できるからです。

このように掲載される出来事が次から次へと追加され・・・

遠い将来になるとは思いますが、いつかはこのように辞書みたいな状態になると考えても過言ではありません。
それかもしくは?

このように何巻にも分ける感じになるのでしょうか?

まあ、読者の中にはおそらく本が大きくなるよりも重要な出来事だけを厳選し、後は全て切り捨てると言った省略化作業を行うのではないかと考える人もたくさんいると思います。しかし、どれだけそれを極限まで行ったとしてもいずれは切り捨てるわけにはいかないほどの重要な出来事が大量に溜まる時が訪れると考えられるため将来的に本が大きくなると想定できます。そうなると当然歴史の授業において扱う内容を増えるわけですから現在行われている一般的な歴史教育のように1年或いは2年ほどの期間で全ての時代を網羅することは難しくなることに間違いはありません。こうしたことから可能性は低いかもしれませんがいつかは社会科教育から歴史が廃止、或いは選択制に変化すると考えても過言ではありません。
また、私はこんなことも考えてしまいました。長くなり続ける歴史は私たちが日常を歩む世界の変化と密接に関係している。ってことは無限に成長し続けるものとして歴史の教科書以外に・・・

世界がある!!


もちろん世界は大きさとしては成長しませんが、その中においては先ほども言ったような人間、建物、乗り物、道具、或いは一時的な習慣などの様々な有限な存在が毎日のように誕生しています。そのため、やがてそれらが無くなったとしてもその時は何かしらの新しい存在へと置き換わるのです。よってこのようにして世界が次々と新たな姿に変化していると考えられます。まさにこれこそが世界の永遠に途切れることのない成長であると言えます。世の中はほとんどが有限ばかりであることから悲惨であると思ってしまいがちであるが、深く考察すると世界が有限の集大成であるおかげで世界は成長できているのです。世界において変色が皆無な場合は新たな文明や最新技術などが誕生しないことから極めてつまらないため、これは非常にありがたい話であります。
今回思いついた考えを以下のように処理しました。

無限に成長し続ける存在として歴史の教科書と世界がある。

歴史の教科書は大きさとしての成長を無限に遂げ続ける。一方で世界は様子としての成長を永遠に遂げ続ける。

って感じです。やはり漢詩などと言った文学作品は私たちに様々な考察の課題を与えてくれますね。それではさようなら。


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