通過点にて
まだ、ワンダラーという言葉を知らなかった頃。
そして、ワンダラーという言葉に出会う直前の頃。
門でも門番でもなく、ただ、境界線を往来しながら、この世の不思議を眺めていた頃。
ワンダラーとしてではなく、ひとりの人間として必死に生きていた頃の、宛先のない最後の手紙かと思われます。
今の心境とはまた少し違う、懐かしい観点。
2015.1.1
2014年の中を1月から12月まで歩いてきました。
そしてあっという間に通り抜け、今、出口のドアが静かに閉じる音を聞いたと思ったら、2015年のドアノブに手をかけているわたしが居ます。
もう日付が変わって新しい年を迎えたのです。
2014年と2015年のあいだに架かる橋を、ご覧になりましたか?
2015年をどのように生きるか、無傷とはいかなくても無事に生き抜くことが出来るのかどうか………立ちはだかる壁のような、圧迫感のある一年が始まったようで胸が苦しいです。
それは既に予感などではなく、ほぼ『予定』に近い予兆を感じているわけなのですが。
皆さんもきっと、同じように感じている筈です。
容赦なく過去へ流れてゆく日常に、誤魔化しようのない無常を覚えたり、避けようのない混沌の波が迫る足音を耳にしては気を引き締め直したりと、自分自身とエゴの境界を保つ余裕すらないような、目まぐるしい日々を送られているのではないでしょうか。
とはいえ、わたしは今までになく静かで穏やかな年越しを味わっているところです。
そうです、本当に心が穏やかで、全くけしからん程なにも考えていません。
なので降りて来るまま、沸き上がるままに任せて書いていこうと思います。
いい加減、平和な世界になってもよさそうな頃合いなのに、相変わらずですね。
まだ粘ろうとするそのエネルギーを、ほんとに平和に活用していただきたいですね。
だけど世界が混沌の渦に呑まれてたとしても、それにわたしがどんな事態に直面しようとも、それは表面上の一部分にしか過ぎません。
変化の兆しはその中で芽生えるのでしょうからジタバタしても仕方ありませんね。
果報は寝ながら待っていてもよいでしょうか?
ーーー中略ーーー
………それは、「見た」という感覚に限りなく近い視覚効果を以て、強烈に感じたのです。……現場を挟んだ向こう側、10mも離れていない道路の中央で、何故か沢山の人影が…ぼんやりとしたおぼろげな光の中から、大小様々なシルエットが重なりあってわたしを見ているのを。
どこか別の世界の人達が『わたしの選択』を固唾を飲んで見守って(?)いるのは奇妙でした。
とにかく『見られている』と、ありありと感じると同時に、不自然さや怖さよりも、この場での選択と行動がどれ程わたしにとって重要なものになるのかを、余裕のない一瞬のうちに予感しました。
『今、試されている』そう感じました。
その影の中にはきっと、わたし自身も居たのでしょう。
お蔭でパニックにならず、ある程度は冷静でいられたのだと思います。冷静というか、実際には特に何かを選択した自覚はなかったので、その時はたったひとつしか選択肢が思いつかなかったのでしょうけど。
この沢山の視線は、わたしにとっては、何とかこの状況や立場を正当化したい、あるいは無かったことにしたいというような、逃げ腰なエゴを一瞬にして封じ込め、人間としての自分の規定値を超えた行動を択らせました。でなければ多分、事の重大さ、責任の重さに耐えられなかったのではないかと思います。
その場でわたしが大事だと感じた道理や勇気でさえも、いざ行動を伴うとなれば、普段ならそこまで強固な姿勢で貫くことは出来なかったのではないかと感じます。
わたしがよく知るわたしの中に、通常、勇気と呼べるような要素は見当たりません。だから無意識とは言え、ありったけのモノをフル動員して、あの時のわたしは相当必死だったのだろうと思います。
ーーー中略ーーー
長々と書いてきましたが、何が主題かと言うと、どうやらやっと見えてきました。
わたし達の、ここぞという場面での(常にかもしれないけど)選択と行動は、沢山の影(フォロワー)に見守られている、ということなんです。
どこかほかの世界線の自分達なのか、それともその出来事に関心のある魂達なのか、守護霊様?という存在なのか、それは全く解らないけれど、とにかく、その決断、その選択、その行動を見守り、そして全力でその勇気に見合ったフォローをしようとしてくれる存在があることは、確かです。
たとえ心の弱さや隙を狙う悪霊、闇の亡者に囲まれていたとしても、自分が選んだ自分自身によって、濃い霧が薙ぎ払われることもあるのかもしれないと思うのです。
どんな時でも、いえ、最悪な状況でこそ、わたし達には沢山の応援団がついているんです。
2015年がはじまり、思うままにつらつらと書きだして、あの視線をまた感じ始めたのです。
これが年頭に相応しい話題かどうかは分かりませんが。
どんな瞬間でさえ通過点にしか過ぎないという事実は、わたし達のか弱い心を奮い起たせ、勇気づける宇宙の微笑みなのだと思います。
だからわたしは生きていられます。
いつか全ての通過点を振り返る時がやって来ることを知っているから。
その時、暖かい懐かしさで胸が一杯になるだろうと知っているから。
切ないような愛おしさできっと涙を流すだろうと知っているから。
だからとても大切に感じます。生まれてきて、世界に触れることが出来て、本当によかったと。
すべての生にこういう瞬間が訪れるのならば、死という経験はクライマックスへの扉にも思えます。
わたしが死にゆく瞬間に、ぜひそれを確かめたいと常々思っているんです。
そういうわけで、わたしは今回の人生を精一杯愛そうとしています。あとからのお楽しみがないならば、大抵の人は割に合わない苦労をしていますよね。
このかけがえのない瞬間は、永遠の中の一頁。
エゴの闇の中で足掻いてもがいて苦しんで、その末に、漸く心を解き放つことが出来るというのが現代人の選んでいるステップなのだろうと思います。
自分らしく生きたいと願う真の葛藤を抱える人間こそが、良くも悪くも、わたし達の光なんです。
ご存じの通り、粒子は高速で移動し衝突すると高エネルギーを生むからです。思考も想いも波動です。
衝突している間は強すぎて波動も荒いでしょうけれど、その後、安定すると全く違うレベルの波になるでしょう?ですよね?
どちらに転んだとしても、方向性を決めた瞬間、葛藤で滞っていた心の枷が外され、新たなエネルギーの流れが生まれます。
固定概念の殻を一枚脱皮した新しい形態の人生の始まりです。
深い葛藤を乗り越えた人間が放つ安定した活動的な高エネルギーは、善悪は別にして、変化の兆しを呼び込む貴重な呼び水となるのでしょう。
そう考えると、葛藤を闇と呼び軽視するのは危険な風潮だとわたしは感じます。
心のどの場所での葛藤かにもよるけれど、全ての葛藤を否定するのなら、もはや人間とは言えません。そんなレベルの精神が重たい肉体に留まれる筈がないからです。
葛藤を避けるよう囁く甘言を信じたことはありませんが 、皆さんも見てきた通り、光を語る闇の使者はとても親切で美しく、言葉巧みに心に入り込もうとします。光の使者が、心に入り込もうとすることはまずありませんよね。その必要があるのは、支持者を増やしたい側だけです。
わたしは、闇の淵に腰掛けて光を見上げる側の人間なので、エゴをくすぐる言葉には敏感です。
スピリチュアル、精神世界、アセンション、この単語に乗じて、どれだけ闇が巧くやってきたか、今日の有り様を見れば一目瞭然ですね。
問題は、どちらの変化をわたし達が選択するのかです。
2015年…果たしてどれだけの人間がどのレベルで葛藤に打ち克ち、どの次元で自分を表現すると決めるのか…根性が試されそうですね。
人類の強力で堅固なるエゴの要塞が、若い潮流を阻むのは目に見えています。
混沌の主な要因は、新たな潮流を呑み込む程の、新たな恐怖と不安の嵐です。
この混沌に呑み込まれないようにするには、結局、ひとつしかありません。
人に嘘をどれだけ吐こうとも、自分の境界を自分で守り抜くことです。
自分が望む自分自身で在りたいのなら、自分の城を簡単に明け渡してはなりません。
これはきっと重要になってくるでしょう。
些細なことからそうでないことまで。
大人の知恵は、経験を活かす為にあるのでしょう。
今年は知恵を使わなければ!
(使える知恵があるならね!)
知恵と言えば、大人の価値は日に日に落ちているとは思いませんか?大暴落です。
本来なら大人達には生き抜いてきた経験と歴史があり、それは次世代が生きる為の知恵や道の叩き台や道しるべとなっていい筈です。だけど大抵の大人は、生まれたての子どもより、ただ長く生きているというだけです。むしろ、バトンを渡す相手から、どれだけ搾取出来るかの計算に余念がありませんね。今、世界は若い世代の希望すら根こそぎ奪おうとしている…。渡すつもりがあるのは、自分達では手に負えずにメチャメチャにした負の遺産だけのようです。
多くの大人達には責任の自覚もないことだし、今からではやっぱり間に合わないかもしれません。
ただ、幸いなことに、それも通過点でしかありません。
わたしはわたしに出来ることをするまでです。
古い手作りの家だからでしょうか、小さな小さな空間の器の大きさを感じます。
そうですね、おそらく2015年は、この草庵に教えて貰うことが沢山ありそうな気がします。
皆さんの2015年が幸多いものになりますよう、お祈り申し上げます。
そして、どんな苦境に立たされようと、決して自分を裏切らないよう。
休んでも倒れてもサボったとしても、自分を明け渡さない限り、きっとわたし達に続きは待っているでしょう。
2015年1月1日
草の庵にて