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装蹄師が育てた至宝

 “私が入門した昭和30年代はどの装蹄所でも蹄鉄はすべて手作りだった。造鉄というが、私たちはみな鉄曲げといい、一日の厩舎での鉄打ちが終わってから、明日打つ分の鉄を曲げるこの作業は一番きつい仕事だったかもしれない。(中略)
 
 二人で曲げる時は鉄床を間に向かい合い、火炉に近い方に先手(助手)が立ち、半分が千度くらいに焼けた鉄棒を大火ばしで取り、術者に渡す。小火ばしで受けた術者は重さ1.5キロの手槌で鉄棒を曲げていく。(中略)
 
 汗が滝のように流れ、そばに水を置いてガブガブ飲みながらの作業。(中略)それでも寒い時期はまだいいのだが、夏のそれはまさに地獄。目も開けていられないほどの汗で、いくら水や塩を補給しても脱水症状になる人もいるほどきつい仕事だった。
 
 弟子たちが多くやめていく大きな原因でもあった。しかしこの時代を経てきた装蹄師仲間はどの人も一本筋が通っていて、この地獄の鉄曲げを懐かしく思い出し、一杯飲んだ時などその話で盛り上がったりする。(中略)
 
 私の丈夫な体はあの鉄曲げで鍛えられたと思っている。腕、肩、胸、そして握力。すべて鉄曲げ作業の流れの中で育まれたのだと思う。だからというわけでもないが、私は今でもこの鉄曲げが装蹄の基本だと思っている。一本一本蹄鉄の形に曲げていくその向こうに馬の蹄がはっきり見えてくる。
 
 装蹄師はものを見る時、角度、傾きといったことに特に注意が必要で、私など街を歩いていても、あの家は傾いている、などと見てしまう。鉄曲げの作業の中で目が鍛えられ、馬の蹄を見てそれに鉄を合わせていく〈鉄合わせ〉がしっかりできるようになるのだ。”
    柿元純司氏著 「装蹄師 競走馬に夢を打つ」より

柿元純司氏著 「装蹄師 競走馬に夢を打つ」(PHP研究所)

 
 ヌッチさん。
ファンばかりでなく関係者、記者、評論家、それどころか初めて彼を知った人までもが、なんのてらいも違和感なく、「さん」づけで親しげに彼の名を呼ぶ。気取らず、温かく、明るい「良きイタリア人」の典型のような彼の人柄がそうさせる。そんなオペラ歌手にはもう出会えないかもしれない。ヌッチさんは語る。
 
 「私にとって歌は勉強であり心からの喜びです。成功したい、名声を得たいと思ったことはありません」
「イタリアは芸術の国と言われますが、私は職人の国だと思います」
「オペラの本質は、お芝居です」
 
 ヌッチさんのお父さんは、装蹄師だった。
馬や牛の蹄を削蹄したり(爪を削ったり)、蹄鉄を打つ(靴を履かせる)職人のことだ。蹄の摩滅や脚の故障を防ぐ努力は、2000年以上も前から続いてきた。牛馬の蹄は、とても脆い。しかも脚を痛めればすぐに命にかかわる。われわれが牛から乳や肉を得たり、馬に乗って遠い土地に移動したり荷物を運ぶために、装蹄という技術を持つ職人の存在はかけがいのないものだった。
 
 職人の子として生まれたヌッチさんは、11歳の頃からお父さんの仕事を手伝っていた。ちょうど、冒頭の柿元師の時代だ。その時代を経て15歳の時には機械工として自動車会社に就職し、働きながら先生に就いて歌を習った。イタリアの至宝とまで称される歌手になったけれど、傘寿を迎えた今でも趣味の自転車をいじったり、鉄道のジオラマ作りに熱中したり、もちろん料理もお手のもの。そんなプライベートも含めて、ヌッチさんが歌手として音楽に向き合う姿勢、オペラを歌い演じてきた姿は、まさに職人のそれではないか。
 
 歌手レオ・ヌッチについて驚きをもって語られるのは、その衰えない歌唱のことだ。声楽的には、ヌッチは60代後半に声と技術が完成され、70代後半になってもほとんど衰えない、という分析まである。
 
 なぜ、そんな驚異的なことが出来ているのか。それは歌手という芸術家である前に、彼が職人に育てられてきたからだと思う。芸術家と職人は違う。芸術家は活躍すると名声を得られる。職人は、名声を得られるとは限らない。けれど、職人は達人にまでなることができる。歌手レオ・ヌッチが衰えることなく歌い続けられるのは、一本筋が通った職人がさらに鍛錬をかさね、まさに達人の域にいるからだと思う。
 
 年齢的には、今回がヌッチさんの最後の来日コンサートになるかもしれない。かなうなら、贈りものをしたい。「装蹄師が育てた至宝に感謝をこめて」と刻んだ蹄鉄だ。
 
 ヌッチさんは、どう思うだろう? 怪訝な顔をするだけだろうか?
それとも、遠い少年の日に、燃えさかる火炉の前で水をガブガブ飲みながら、仕事に打ち込む職人の姿勢を教えてくれた、あの厳しくも優しかったお父さんのことを思い出してくれるだろうか。
そして、微笑んでくれるだろうか。

(文・荒井れん)

レオ・ヌッチ写真 © Mirella Verile
 
 

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