彼岸ノ月ガ廻ル刻 第一話【創作大賞2024漫画原作部門応募作】

 高校から帰宅途中だった北川伊吹は、白い着物姿の子供と謎の声によって、《怪異》と呼ばれる異形の存在がいる《似て非なる世界》に引きずり込まれてしまう。
 伊吹は、伊吹と同じ世界から来た女性の孫娘、陵六花と出会う。
 六花の存在により、元の世界に戻ることは不可能に近いと知った伊吹は新たな生活を始める。
 そんな伊吹の前に、元の世界で行方不明になっていた幼馴染みの藤野みちるが現れる。
 再会もつかの間、白い着物姿の子供によってみちるは連れ去られてしまう。
 みちるを助け、二人で元の世界に戻るため、伊吹は怪異と闘い、祓う術師になる。
 人と怪異、二つの世界と思惑に翻弄されながら、伊吹は真実に辿りつく。


★補足説明
●舞台となる《似て非なる世界》の文明は現代とほとんど同じです。
●二つの世界を区別する点として、
・事実上の首都である東都(東京都に当たる)と、憲法上の首都である京都の二つの首都があります。
・東都は三十五区となっています。
●人間と怪異、双方の血を引く、薄紅色の瞳をしたあらずという存在がいます。
● ◆場面転換などです。
● 〘 〙ナレーションです。


第一話 濫觴ランショウノ風ガ吹ク
◆九月下旬の午後
 三階建ての校舎の高校全体を上から見た構図。

【風の音】ビョオオォォ

 無人の校庭を強い風が吹き抜け、砂埃が舞い上がる。

◆校舎の三階。賑やかな教室の窓際の席

伊吹(呼ばれた?)

 帰るために立ち上がった北川きたがわぶきの視線は外に動いた。
 窓ガラスには、茶色の髪と下がり気味の目尻をした金茶色の瞳の自分の顔が映っている。
 その向こう、校庭では砂埃が渦を巻いている。
 その中に白っぽい服装の、小さなな人の姿が見えた。

伊吹(子供、じゃないよな)

 伊吹が窓に近づこうとしたその時だった。

友人:古賀こが「――わ。――がわ! おい、北川!」
友人:丸山まるやま「おーい、どったよ北川」
伊吹「え?」

 はっ、と我に返った伊吹が振り返ると、友人の古賀と丸山がいた。

古賀「校庭になんかあるのか?」
伊吹「あ、あー……なんでもない。ちょっと外見てただけ」

 ちらりと校庭を見るが、そこには誰もいない。伊吹はへらりと笑ってごまかした。

丸山「ならいいや。北川も今日暇? 今日までのクーポンあんじゃん。古賀は暇だし、もりは部活ミーティングだけですぐ終わるんだってさ。行こうぜ」

 丸山が向けてくるスマートフォンの画面には、今日が使用期限のファストフード店のクーポンが表示されている。

古賀「暇じゃない。今日は用事がないんだよ」丸山「そういうのを暇って言うだろ」
伊吹「ごめん。俺、今日はパス」
丸山「えーなんでだよ。今日はバイトないんだろ」
伊吹「ないよ。でも用事があって――」

 伊吹が右手に持っていたスマートフォンの画面がパッと明るくなった。
 素早くスマートフォンに視線を落とすと、アプリの通知が表示されている。
 伊吹は機械的に指を動かし、通知を消す。
 それを見ていた丸山は神妙な顔になった。

丸山「なあ北川。聞きたいことがある」
伊吹「なんだよ?」
丸山「お前、ひょっとして彼女できた?」
伊吹「は?」
丸山「最近スッゲェ、スマホ気にしてんじゃん。一学期の頃とか家に忘れても、充電切れても全然気にしてなかったのに。となれば導き出される答えは一つ! 彼女ができた、だ!」
伊吹「大外れだし、なんだよその雑推理」
古賀「推理にもなってなだろ」

 伊吹と古賀は呆れたようにそう言った。

伊吹「最近のは母さんからだよ」

 丸山が表情を引きつらせる。

丸山「お前マザコ……」
伊吹「違う。母さん、海外出張中なんだよ。で、デリバリーでもコンビニ弁当でもいいけどバランスはちゃんと考える、可燃ゴミは絶対に出す、炊飯器は使ったら内蓋もちゃんと洗う、洗濯物は干しっぱなしにしない、とかの注意事項。母親って偉大だよな、仕事しながら毎日やってくれてるんだから」

◆回想
 笑顔で右手を上げ、左手でキャリーケースを引く伊吹の母。

伊吹の母『伊吹も高校生二年生になったことだし、一ヶ月くらいなら男二人でも平気よね!』
◆回想終了

 古賀と丸山は神妙な顔つきになった。

古賀「俺、今日から食器洗うわ」
丸山「オレもそうする」

 うんうん、と伊吹は頷いた。

伊吹「今日は野菜炒めの材料と、ごみの袋のストックを買いに行く用事があるんだよ。近所のスーパー、五時から野菜のタイムセールでさ。だから悪いけど帰る。また誘って」
古賀「気をつけろよ。じゃあな」
丸山「次は付き合えよ。また明日な」
伊吹「うん。じゃあな」

 伊吹は二人に向かって軽く手を振った。

◆生徒で賑わっている廊下

古賀「北川!」 

 怒っているような表情をした古賀が伊吹を追いかけてきた。

伊吹「どうした?」
古賀「無理すんなよ」
伊吹「してないって。俺より父さんの方がずっと――」
古賀「違う。そんな顔してたらとうが怒る」
伊吹「……え?」

 淡々とした古賀の言葉に、伊吹の表情が固まった。
 いつも通りの笑顔に戻そうとするが、上手くいかない。

古賀「お前がそんな顔してたら、心配して怒るって言ってんの。目の下に隈できてんの、自分で気づいてるか?」

 ピシリ、と古賀は伊吹の顔を指さした。
 伊吹は目の下に指を伸ばす。

古賀「触ったって分かんないだろ。藤野の今年のインターハイの成績知ってるだろ。剣道で個人・団体の両方で全国十六位。そんだけ強いんだから、絶対無事に帰って来る。お前が信じてなくてどうすんだよ」

 伊吹は息を飲んだ。
 強張っていた顔から力が抜ける。しゅん、と肩が落ちる。

伊吹「……だよな。ごめん」
古賀「心配してくれて、ありがとうございます、だろ。ま、小五の時から同じクラスの腐れ縁だしな」
伊吹「そこはさぁ、友情の奇跡で同じクラスとか言えよ」
古賀「俺はそんなロマンチストじゃありません。悪かったな、タイムセールなのに引き留めて」
伊吹「心配してくれて、ありがとな」
古賀「どういたしまして」

 伊吹は教室に戻る古賀を見送った。

◆住宅街にある片側一車線の交差点
 歩行者用信号機の赤信号で立ち止まっている伊吹は、スマートフォンを見ている。
 周囲には帰宅途中の中高生や、子供を連れた買い物帰りの人たちがいる。
 車道も車やバイクが行き来したり、信号待ちをしている。

【みちるとのトーク画面】《今どこ?》

 メッセージには既読のマークは付いてない。

伊吹(……)

 伊吹は沈鬱な表情でスマートフォンを強く握りしめた。

伊吹(物心つく前からの幼馴染み、藤野みちるが行方不明になって今日で五日目。
 家でも、高校でも部活でも変わったことはなくて、いつも通りだったらしい。
 いつもと同じように自宅最寄り駅で降りて、自宅の方に向かって歩いていく姿が駅前の防犯カメラで確認されている。
 けれど、そのあとの足取りが分からない。
 スマホの電源は切れたまま。目撃者も所持品も、有力な手がかりになるものは何一つ見つかっていないらしい)

 文字を入力しようとして、画面に触れかけた指が止まる。

信号機【パポー、パポー】

 歩行者用信号機が青に変わったことを告げる電子音が流れる。
 顔を上げた、伊吹は目を丸くした。

伊吹「あれ?」

 周囲にいた人たちがいなくなっている。車も一台もいない。
 不安にかられ、思わずスマートフォンを見た伊吹は首を傾けた。
 電波表示は圏外になっている。

伊吹(さっきまでなんとのなかったのに。再起動してみて――ん?)

 視界の隅に白い影を感じ、伊吹は視線を動かした。
 交差点の真ん中に、水干に似た白い着物を着た五、六歳くらいの男の子が立っている。
 顔は漢字を崩したような文字や、記号を組み合わせたようなものが書き込まれた白い面布で隠されている。
 校庭に立っていた、小柄な姿が脳裏をよぎる。

伊吹(……さっきの子?)

 ゾワリ、と得体の知れない何かが体中を駆け抜ける。
 心臓がドクドクと激しく動く。

伊吹(なんだろう、この胸騒ぎ)
子供「みぃつけた」

 子供は伊吹を指さした。

伊吹「俺? 君、俺のこと知ってるの? じゃない、車来るかもしれなから、そんなとこにいたら危ないよ」

 伊吹はスマートフォンをスラックスのポケットに押し込めると、優しい声と表情を作って駆け寄った。

伊吹「あっちに行こうか」

 軽く上体を屈めて、視線で歩道を促す。
 タイミングを見計らったかのように、歩行者用信号機が点滅を始める。

子供「捕まえた」

 子供は丸さが残る小さな白い手で、伊吹の右手首を握った。

伊吹(冷たっ!)
伊吹「君、具合悪い? どこか苦しかったり、痛かったり――うわっ!」

 伊吹が子供の顔を覗き込もうとした瞬間、転びそうになるくらいの強風が吹いた。
 伊吹は咄嗟に子供の背中に左腕を回した。抱きしめるように子供を庇う。

子供「ふふっ。ははは」

 子供は小さく笑った。

子供「――だね」

 かろうじて聞き取れる程度の小さな声だった。

伊吹「え?」

 伊吹の胸騒ぎはさらに大きくなる。

伊吹(……怖い、とは違う。もっと別の、なんか――)

 風が止み、目を開ける。
 景色は一変していた。

伊吹「なっ!」

 伊吹と子供は薄闇の中に立っていた。
 周囲の住宅は消え、アスファルトの道路は石畳に変わり、石造りの大きな鳥居へと続いている。

子供「じゃあ、行こう」

 子供は伊吹の右手首を握ったまま、石鳥居に向かって歩いていく。

伊吹「ちょ、ちょっと待って!」

 伊吹は子供を引き止めようと、右腕に渾身の力を込めるが、びくともしない。

子供「どうして?」

 子供は足を止めると、伊吹を見上げた。

子供「ねえ、どうして?」
伊吹「どうしてって……おかしいだろ? 突然こんなことになって」
子供「おかしくないよ。だって――」
声『くすり』

 楽しそうな子供の声に、姿の見えない誰かの笑い声が重なった。
 直後、黒くドロリとしたものが伊吹の体に絡みつく。

伊吹(なんだ、これ!)
伊吹「うわっ!」

 どぷん。伊吹はあっという間に暗闇の中に飲み込まれた。
 伊吹の右手首を掴んでいた子供の手が離れる。
 
子供「どういうことだよ! 話が違う!」

 苛立った口調で叫ぶ子供の声がどんどん遠くなっていく。
 また、くすり、と小さな笑い声。

声『違わない。力を貸してあげた。でも――』

◆深い暗闇の中
 伊吹は一人、ぽつりと立っている。

声『あの子は可哀想だから、力を貸してあげた。でもあの子にだけ、というのも不公平』
伊吹(さっき聞こえた声)
伊吹「すみません。誰で――」
声『だから君にも手助けしてあげよう』

 心臓が大きく跳ねた。

伊吹「グッ!」

 体の内側から蹴りつけられたような重い衝撃が全身を襲う。
 凄惨な痛みに顔を歪めた伊吹はシャツの胸元を掴み、両膝をついた。
 息が切れ、額には苦悶の汗が滲む。
 きつく閉じた目蓋の裏で、チカチカと光が明滅する。

伊吹(……なん、だよ、これっ!)
伊吹(体の奥深くから得体の知れない何か・・が湧き出してくる。
 体中が焼けるように熱くて、体中の血が凍りつくように冷たい。
 溶けて。混ざって。固まって。
 作り変えられていくような――)

 額から流れた汗が頬を伝う。

伊吹「っ! いっ! 誰っ! だよ! ……どう、いうつもり……かはっ!」
声『これでおんなじ』

 もがき苦しむ伊吹を気にすることなく、声は尊大な口調で言い放った。

伊吹(痛い……苦しい……)

 ぜぇぜぇと息をしながら目を開ける。
 霞む視界の中で、はらり、と人差し指の先ほどの白い小片が翻った。

伊吹(……雪?)

 後を追うようにもう一つ。
 さらにまた二つ、三つ。暗闇の中、無数の小片が舞う。

声『また会いましょう』

 くすくすと楽しそうに笑う声が遠くなっていく。

伊吹「まっ……待て!」

 すがるように伸ばした指先を小片が掠めた。
 白だと思っていた小片は、ほのかな薄紅色をしている。楕円形で、先端に切れ目がある。

伊吹(……雪……じゃない。桜の花びらだ)

 どこからか優しい風が吹いてきた。
 柔らかな花びらは、伊吹の目の前でふわりと舞い上がる。

――追いかけろ
――捕まえろ

 頭の中で声がする。
 伊吹は歯を食いしばり、立ち上がった。
 すぐに足がもつれる。
 何度も転びそうになりながら、花びらを追いかける。

――逃がすな

伊吹(……分かってる。そんなの言われなくたって分かってる!)

 ひらひらと無数の花びらが舞う中、走り続ける。

伊吹「つっ! 掴まえ……た!」

 飛びつくように花びらを掴んだ瞬間、目の前がぱっと明るくなった。
 立ち止まろうとするが、走っていた勢いを止められず、前に大きくつんのめる。

伊吹「あっ、でっ! うぉえぇ! ……は?」

 なんとか体勢を直した伊吹は目を丸くした。

◆夕日を浴びてキラキラ光る高層ビル郡に囲まれた広い空き地

車の走行音【ブロロロロォ】
クラクション音【パッパー】

伊吹「えぇと……」

 伊吹は呆然と高層ビル群を見上げた。

伊吹「マジでどういうこと?」

 目を閉じて、ゆっくり深呼吸すると右頬を摘む。

伊吹「……痛い」

 目を開けても、風景は変わらない。
 ヒリヒリと痛む頬を押さえ、伊吹は大きなため息を吐いた。

伊吹(夢じゃない)
伊吹「クシュッ!」

 九月らしくない肌寒さに体が小さく震えた。
 湿った土と植物の匂いに、鼻の奥がムズムズする。

伊吹(寒っ! 今、夕方だよな? こんなに寒くなるっけ)

 小さく鼻を啜る。

伊吹(あの子どこ行ったんだろ)

 振り返れば、見覚えのある大きな石鳥居。

伊吹(さっきの鳥居だよな。ここ神社?)

 そのまま周囲を見渡すが、手水舎や社務所、拝殿などの神社を構成するものは何もない。

伊吹(でもなそう。とりあえず、ここがどこか調べて――)

 ポケットからスマートフォンを取り出し、スリープを解除した。はずだったが、画面は真っ暗なまま。

伊吹「……え? え! ちょっと待って! なんで? 嘘だろ! さっきから調子悪かったけど、今? このタイミングはナシだって!」

 何度ボタンを押しても、どれだけ画面を触っても反応しない。
 暗い画面に焦った表情をした自分の顔が映る。

伊吹「あー! なんっなんだよ! さっきのすっげぇ痛かったし、苦しかったし! でもってここはどこ! 瞬間移動? いや意味わかんないし。森田の好きなラノベの世界じゃないんだから。……スマホ、修理出して直るかな。まだ保証期限内だっけ? 四時からのタイムセールももう間に合わない――」

 好き勝手呟いていて、はっと気づいた。左肩を確認する。

伊吹(カバンは?)

 慌ててもう一度周囲を見渡すが、それらしきものはない。

伊吹(せめて小銭!)

 ポケットの中を探してみるが、出てきたのは水色のタオルハンカチだけだった。
 右手にタオルハンカチ、左手にスマートフォンを握りしめた伊吹はガックリと肩を落とした。

伊吹「……今日の星占い一位、なんだったんだよ」

 一つため息を吐くと、石鳥居をじっと見つめた。

伊吹(鳥居は日本独自の建築物、だったはず。ということはここは日本)

 もう一度周囲を見渡す。高層ビルには灯りが点いている。走っている車も見える。

伊吹(電気は点いてる。車も走ってる。人がいる。ならなんとかなる!)

 伊吹はスマートフォンとタオルハンカチをポケットに入れると、パン、と両頬を軽く叩いた。

伊吹「よし!」

 気合を入れると石鳥居に向かって歩き出す。

伊吹(まずは地図か交番探して。たぶん都心部だよな。こんな大きな鳥居だけの場所あったんだ――)

 石鳥居を潜った瞬間、キィン、と頭が痺れるような耳鳴りがした。

伊吹「イッ!」

 痛みに顔をしかめ、両耳を塞ぐ。
 一、二秒ほどの耳鳴りが治まり、顔を上げた伊吹は驚いて叫びそうになった。

伊吹「っ!」

 数メートル前に一人の老女が立っていた。
 腰は曲がっていて、頭は伊吹の腰の辺りにある。
 黒っぽい着物を着て、真っ白な髪を後ろで一つに纏めている。
 皺だらけの顔には、人の良さそうな笑みを浮かべている。

老女「こんばんはぁ。良い夕方ねぇ」
伊吹「……あっ、はい。こんばんは」

 驚きを隠しながら伊吹が応じると、老女は狭い歩幅で近づいてきた。

伊吹(交番の場所、知ってるかな?)
伊吹「あの、すみません。ちょっと聞きたいことが――」
老女「ねえぇ、あなたの腕をぉ、下さるかしらぁ?」

 老女は笑みをさらに深めた。

伊吹「は?」
老女「足でも良いのよぉ」
伊吹「あの、どういうことです、っ!」
伊吹(この人!)

 目の前までやって来た老女の黒目は、べったりと塗りつぶしたように、真っ黒だった。
 地面に着きそうなほど長い裾からは、鋭い鉤爪が生えた足が覗いている。
 背筋を悪寒が走り、肌が粟立つ。伊吹は思わず後ずさった。

老女「あらぁ、気づいちゃったのぉ。あなた、結構鋭いのねぇ。人間って鈍い生き物なのにぃ」

 口角を歪めた老女の体を黒い靄が覆う。

老女「化けるのってぇ、お腹が空くのよぉ」

 老女の眼球がぐるりと回る。縦に細長い瞳孔と紅の虹彩が現れた。
 すっ、と腰を伸ばした老女は伊吹を見下ろし、一歩近づいた。
 バサリ、と纏めていた老女の白髪が広がった。長い髪の一房一房が蛇のようにうごめく。

伊吹「なっ……!」

 鼓動が激しく脈打つ。足は震えるだけで動こうとしない。
 老女は枯れ枝のような細い右手で怯える伊吹の首を掴み、軽々と持ち上げた。

伊吹「くっ!」

 伊吹は老女の腕を引き剥がそうともがくが、ビクともしない。
 首を締め上げるミシミシという嫌な音が体中に反響する。
 スニーカーの靴底が地面から離れ、爪先が力なく石畳を蹴る。

老女「怯える人間の姿はぁ、何度見ても良いわぁねぇ。肉が硬くなってしまうのがぁ、難点だけどぉ」

 老女は恍惚の表情で舌なめずりをした。
 尖った歯と長い舌が迫ってくる。
 生き物が腐ったような、嫌な臭いがする息が顔にかかる。

伊吹(……俺……ここで……死ぬ?)
伊吹(こんな所で……こんな理由わけ分かんないのに喰われて……?)

 体中から力が抜け、だらりと腕が下がる。
 遠のく意識のなか両親や姉や友人たち、そしてみちるの姿が浮かぶ。

◆回想
『身体健勝』のお守りを両手で大切そう持ったみちるは、アーモンド型をした濃い茶色の瞳を輝かせている。

みちる『ありがとう、伊吹! 大切にするね』

 そう言って笑う。
 瞳と同じ色をした、セミロングの髪が揺れる。
◆回想終了

声『抗え』
声『求め、足掻け』

 脳裏にあの声が響く。

声『呼べば応じる』
声『それが――』
伊吹(死にたくない……)
伊吹(喰われてなんてやるか!)
伊吹「死んで! たまるか!」

 刹那、心臓が激しく脈打った。冷えた体の奥深くから、熱が込み上げてくる。

 ――カッ!

 強烈な音がした。
 目の前で白銀の光が弾けた。
 その中心、縦に細長い光がひときわ強い光を放っている。

伊吹「……で」

 伊吹は震える手を伸ばした。
 呼びかけに応えるように光が近づいてくる。

伊吹「おいで、い――ち」

 光を掴む。
 手の中にずしりとした重みを感じる。

老女「あらぁ、何かしら。無駄なことを――ぎゃあああぁ!」

 そのまま老女に向かい振り下ろした。
 グッと何かを斬る手応えがあった。
 黒い血が飛び、悲鳴を上げた老女は伊吹を放り投げた。

伊吹「イッ!」

 石畳に叩きつけられ、体中が痛む。手にも足にも力が入らず、立ち上がれない。

老女「……あぁぁ! 術師かい? そりゃあ鋭いわよねぇ! 失敗したぁ! 遊んでないで、さっさと喰っちまうべきだったわぁ!」

 怨嗟の声を上げる老女の顔には、縦一線に大きな切り傷が走っている。

伊吹(……術師?)

 老女は伊吹の髪を掴むと強引に上向かせた。目の前に鋭く尖った右手の爪を突きつける。

伊吹「グッ!」
老女「でもまぁ霊力切れのようだねぇ。お仲間もいないみたいだし、残念だったねぇ」

 老女の体を覆う靄が濃さを増す。老女の爪が迫る。

伊吹「っ!」
少女「動かないで。ほたるばな!」

 凛とした少女の声が響いた。

老女「なんだい! これはっ!」

 老女の周囲で無数の小さな光が飛び交い、火花が弾ける。
 老女は伊吹から手を放し、両手を振り回して光と火花を払う。
 その老女の背後に、一人の少女が立っていた。
 黒いロングジャケットに黒いショートパンツ、黒いタイツという服装の美しい少女だった。
 透明感のある白い肌。薄紅色をした形の良い大きな目。赤い紐でポニーテールにしているミルクティーのような色の髪は、夕日を浴びて艶やかに輝いている。
 その少女と目が合った。
 大丈夫、というように少女は小さく頷いた。

少女「まといみつ

 清廉な空気が伊吹の周囲を包み、目の前に透明な壁が現れた。
 老女は伊吹を一瞥すると、体を震わせた。

老女「おのれぇ! こいつを囮にして隠れていたのかいぃ。小賢しいねぇ。まあぁ食事が多いのは良いことだわぁ」
少女「最近、この近辺で人を襲っているのはあなたですか?」
老女「だったらなんだって言うんだぃ? アタシだって食事をしているだけだよぉ。アンタたち人間に責められる言われはないねぇ! 違うねぇ、あらず如きにつべこべ――」

 ニタニタと嫌な笑顔を浮かべながら言う老女の白髪が鞭のようにしなり、少女に襲いかかる。

伊吹「危なっ!」

 少女を庇うように黒髪の少年が現れた。
 少女を抱きかかえると、軽々と後方に飛ぶ。
 少女が立っていた場所に白髪が突き刺さり、砕けた石畳の破片が飛ぶ。

少年「勝手に行くな」

 怒気を孕んだ低い声がする。
 こちらは鋭利な刃物を思わせる少年だった。
 硬そうな黒髪、切れ長の灰色の目、端正だが気難しそうな顔立ちをしている。黒いショートジャケットに黒いパンツ、少女と揃えたような出で立ちをしている。

少女「ごめん」
老女「まだいたのかい!」

 老女の白髪がさらに二人を襲う。
 少年は少女を抱えたまま、軽やかな動きで躱していく。

老女「ちょこまかと!」

 憤怒の形相の老女は二人に飛びかかる。
 少女は素早く少年の腕から降りた。
 文字や記号が書かれた一枚の札を取り出すと、老女に向かってかざした。

少女「ごう

 次の瞬間、老女の体が炎に包まれた。

老女「ひぃっ! いぎゃぁぁ……」

 老女の体は煤のようにボロボロと崩れて、跡形もなく消滅した。

伊吹(い、今何が起きた? ……あの二人が助けてくれたんだよな)

 伊吹はこちらを見つめる少年と少女を見つめ返した。


第二話

第三話