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ピアノと床屋さん

中学に入ると同時にピアノを習い始めた。
自分でも驚くほど下手くそで、
センスがないことは最初からわかっていた。

時々コンクールのようなものがあって
仕方なしに出たが毎回散々だった。
自分の出番になると頭が真っ白になって鍵盤の上 に手を置いたまま固まってしまったこともある。

コンクール終了後の集合写真は特 に嫌いだった。今見てもほかの子どもたちは満面の笑みなのに私だけ魂が抜けたような渇いた表情をしている。

中3の時、クラス対抗の合唱コンクールでピアノ伴奏をやらされた。ピアノを習った経験があるのは私だけだったから。ただ、それだけの理由で。
音楽の先生は、合唱と合わせる度に私のピアノの伴奏に頭を抱え半ば諦めのような態度だった。

結果は最下位で、きっと自分のせいだとしばらく落ち込んだ。クラスメイトの誰からも責められなかったのがせめてもの救い。あの時に弾いた「翼をください」を聴くと今もせつなくなる。

ピアノの先生は優しい人だった。
上達の鈍い生徒だったのに叱られた記憶がまったくない。朗らかな笑顔と小鳥のような澄んだ声。一人っ子の私にとって先生はお姉さんのような存在だった。

レッスンは先生の実家の床屋さんの2階で行われていた。床屋さんに一歩入ると、とにかく強烈な匂いがした。クサいわけではない。嫌いでもない。
香水のような、
洋酒のような、
大人の男の人の体臭が混じったような匂い。
2階への階段は細長い店内の一番奥にあったから
通り抜けるたびにドキドキした。

レッスン中は、その匂いが部屋中 に充満し、
全く集中出来なかった。
今ならあつかましく、
「この匂いはなんですか?」って聞けるけど、
子ども心に絶対触れてはいけない禁断の世界だった。



合唱コンクール以来、レッスンは辞めてしまった。ピアノを触ることもなくなった。


あの床屋さんは今も店を構えている。
20年前に火事になり改装したらしい。
外観は少し面影を残しているが、
店内はすっかり変わっていた。
そして、あの強烈な匂いもない。
当時もあった大きな鏡の向こうに
楽譜を抱えて走り抜ける自分がいた。


ピアノに対するコンプレックスも柔らかな心の傷も、それを遥かに超える匂いに掻き消されていたことにふと気づく。

幼いころから香りや匂い に敏感なのは、 
生きることを軽やかにする為の神さまからの贈り物なのかもしれない。

これから先もどんなギフトをくれるのだろう。
黄昏時の秋空を見上げてぼんやりしていると、
微かに冬の風の匂いがした。

#ピアノ #床屋さん #匂い #遠い思いで #秋の黄昏

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