こんな青春で、すみませんね 1年生

「なんでこの大学に来たの?」

一度もうまく答えられなかった質問だ。

「志望校に落ちたから、滑り止めで、後期で入ったんです。」

もさもさのクソダサい服装のちびデブがこんな風にほざいて、誰が気持ちがよくなるんだ、なんて簡単なことも分からないくらい、あの頃の私はおかしくなっていた。でも、私なりには、これでも言いたいことを100から1にしたくらいには抑えた気持ちでいた。


四月。答辞でよく耳にする「期待」なんてものは、どこにも見当たらなかった。

あのうららかな春の日に、私はひとり絶望の二文字の中で体育座りをして、肩を縮こまらせて、目に映るものすべてを否定していた。

私がなんでこんなにひねくれていたのか。それを説明するには三日三晩かけることもできるほどに気持ちが入りやすいが、ここはお目汚しも甚だしいのでなるべく簡潔に述べようと努力したいと思う。努力はする。





まず、受験勉強が思うようにできなかった。

うちの家族は、学歴がそんなに良くなかった。父も母も兄も姉も。

高校進学時も、ミラクルで地元一の進学校に受かったが、そのミラクル加減をいまいち理解せずに祝われて嫌だったのを覚えている。たいていそういう時、「さすがお父さんの娘」だとか「昔は私の方が頭良かったから、勉強してたら今頃私も」とか、誰一人として私の努力は褒めずに、血がいかに優れているかを教えられたような気もする。しらんけど。

そんな環境だから、大学受験など、もはや一人で戦うしかなかった。中学の頃から志望していた関西の旧帝に行きたいと話しても、地元の国立に行った方が親孝行だとか、地元の大学はいい教育するから勉強の質はさして変わらないとか、特に父には平気で言われた。それでも諦めずに頑張ったが、周りのように塾に通ったり、レベルの高い参考書を買ってもらったりすることはなかった。学校から支給された基礎の本を何度も読み返して、模試の答えを大事に保管して、なるべく安く勉強できるよう頑張っていた。あるいは、練習で私立を受けるだとかはお金がないから許さないと言われたし、センター試験の一カ月前に家族がやっとセンター試験の存在を知ったようで、12月になってから勉強時間を増やさせてくれたりした。


それよりも家族の話題は闘病にあった。母の癌が再発していたからだ。再発は初だが、癌自体は3度目か、4度目だったと思う。とはいえ人生の中で、久しぶりに「ガン」という音をきいたなぁというくらい、前の癌は過去の話で、もう完治なんじゃないかみたいな雰囲気の中での発表だったので、それなりに衝撃を受けた。母は絶対に治すと意気込んでいたが、私はもう昔みたいに馬鹿ではなかったので、検査の数値を見れば数年のうちに会えなくなるんじゃないかなぁと不謹慎にも少し思ってみたことが何度かあった。

とはいえ、主治医も今すぐにひどくはならないと言ってたので、いくぶんか猶予はありそうだった。

母といつまで過ごせるのか、そんな重要なのに曖昧な問いの答えは出ないまま、私は受験勉強を続けた。家族は病気について口外しないように、と言ってきた。治った時に気まずいかららしい。

おかげさまで、とても人のよい担任が「どうして突然、県外の旧帝じゃなく、地元にすると言い出したの」とか「私立受けなくていいの」とか、親身になって面談してくれてるとき、私も喉から手が出るほど助けを求めていて、泣きそうで、勉強が思うようにできないのが死ぬほど辛かったのに、いつもの笑顔で「いやぁ、ちょっと不安になっちゃって!」とかふざけていなくちゃいけなかった。その度、「君の成績なら大丈夫だよ」と言ってくれた担任を、私は今でもすごくしっかりした「おとな」だったなと思い出して、尊敬している。同時についに最後まで正直に相談できなくて、申し訳なかったとも思う。

でも、誰のことも責められない。受験と命だったら、そりゃあ命の方が大事だからだ。私も親も悪くない。


あと、うちには、とてもうるさい兄がいた。あんまり説明しないでおくけど、普通の会話ができたことはないレベルの重さのある個性があって、でも、まぁ、かわいい。くらいに思ってないとやってられない。

そんなこんなで、私の味方は、私を地元にとどまらせようとしてくる父をなだめて、自分のせいで夢を諦めてくれるなと言ってくれた母と、面談をして模試を勧めてくれる担任くらいだった。最終的にはそのいずれもが、私の悩みの本質を知ることがなかったのが残念だ。

でも、本当に頑張った。どんなに親戚に親不孝と非難されても、どんなに父に地元の国立をプレゼンされても、応援してくれてる人が一人でもいるのなら、あとは自分のためにも、頑張りたいし報われると思った。



頑張って頑張ったので、最後の記述模試でA判定が出た。


受かるかもしれない。

そう思ったとき、努力が報われる嬉しさも少なからずあったが、もっと強かったのは不安だった。関西に行って、もしも母が危篤だなんていわれたなら、何時間バスに乗るんだろう。その間、私はどんな顔で何をしていたらいいんだろう。

親不孝。頭をめぐる親戚の声。誰の顔を見たって、誰と話したって、いつもそれが滲み出ていて、彼らがお見舞いに来る週末が嫌いだった。でも、本当なのかもしれなかった。私は薄情で、親の命よりも、夢を追いたい馬鹿者なのかもしれなかった。



センターの足切りを免れて、あとは得意な二次試験でA判定の実力をみせるだけ。そこまで来ても私は不安で仕方なくて、皆が寝静まってから布団をかぶって、声を殺して泣いていたりした。志望校にいくのが、どうして悪いことなんだ。頑張ってもいいじゃないか。でも、私だって親の死に目にはあいたい。もう何が正解かも、誰にSOSを出したらいいのかも、分からなかった。どころか、口外禁止だもんな。私は受験勉強といえば、母親がお夜食を持ってきて陰からファイトって言ってくれるような、皆から応援されるものだという認識があったのにな。


受験当日、駅につくと、受験生らしき人たちが、うじゃうじゃと同じ方向を目指して歩いていた。車だと8時間かかるど田舎からここまで来て、一人で歩いているのは私だけに思えた。見たこともない制服の集団は互いに「おはよ」と声を掛け合っているし、近くを歩く親子は私服の私を見て「なぁアンタは制服で良かったん?」と話しだしていた。私の地域はほとんどが私服高校だった。

アウェーだ。

着席しても、まだ続いた。「浪人したら」「神戸大の後期に…」全部全部しらない世界だった。身分までアウェーだと思った。

別にお母さんに会場までついてきてほしかったわけではない。母と姉は会場には来なかったものの、母の関西の実家に帰省がてら旅行気分でついてきていた。でも当日は、関西の叔母と今日どこに行くか自慢したり、受験終わったらイオン集合とか言っていて、その温度差に疲れた。

とにかく、その日の感想は「絶対落ちた」に尽きる。あこがれ続けたために、いつもはしないのに緊張して、アウェーに潰されて、写真ではメガネ付けたけど解くとき取っていいのかなとか、私立で練習してたら分かったであろう雰囲気もぶっつけ本番で、あとは、頑張るほどに死に目に会えなくなるっていう…



「夢のなかで幼い頃の私を抱きしめた」と、悲しそうに言っていた母が、イオンのエレベーター前で手を広げて待っていた。仲がいいわりにスキンシップが少ない親子だったと思う。

「おつかれさま。よくがんばったね。」

何とも言えない恥ずかしそうな顔で笑う母に、私は抱きつかなきゃいけないと思ったのに、やめてよ、とその腕を下げさせた。

そして

「ごめん。絶対落ちた。」

と言った。


母は、今まで無理だと言われてもミラクルを起こし続けた私が、実は努力の天才だというのもしっかり分かったうえで、受かると信じてくれていたので

「え?」

と困惑した様子だった。私が悩んでいるのには気づかなかったのだ。

きっと今回もいつもみたいに受かると期待してくれていた。なのにハグもしてあげられず、期待も裏切って、それでいて母のせいにしそうな気持ちになっている自分が惨めでならなかった。母だって、癌になりたくてなったわけでもなくて、闘病しながらも弁当作りも洗濯も掃除も料理も今まで通りやってくれて、死ぬ気なんて一切ないのに。

ずっと、何年も、だれかに否定されても、自分を信じて頑張ってきたのに、今日一日だけまわりの様子に驚き、慌てふためき、そして母の死に目にはあいたいとか思ったせいで、私の努力は報われなかった。私は自己評価は正しい方だ。結果は思った通り、不合格だった。



一般的に考えて、大学受験で後期を受けて、それを滑り止めだと言うのはおかしい。周りの国公立志望の子たちは、いくつかの私立を滑り止めで受けたうえで、前期、後期と出願している。大学受験において滑り止めは私立であることが多く、後期はどちらかというと浪人を前にしたラストチャンス、一番くじの追加応募QRコードみたいなものなのだ。前期よりほんの少し落として後期チャレンジして、ダメなら私立か浪人だ。

なのに、うちの人は、前期がだめでも後期には絶対に受かると、自分が受けるでもないのに信じ切っていた。高校受験でもあるまいし、そんな絶対があるわけない。もちろん私も地元だから受けた大学なので、第一志望との差は歴然で、後期には自信があった。しかし、私が自信があると言うのはまだしも、何も知らない誰かが絶対受かるなどと言うな、とは常々思っていた。

だが、国立前期後期しか出願しないというトンチキ受験はポピュラーではないことは未だに家族には説明していない。なぜなら、宣言通り後期は受かったからだ。


私は皮肉にも、浪人も私立もなしで、地元の大学に行けという親戚や父の願いを叶えてしまった。




ここで、冒頭に戻ろう。

「志望校に落ちたから、滑り止めで、後期で入ったんです。」

間違ってはいない。

こうやって言ったときに、一番顔をしかめるのは見た目重視のストリートダンスサークルだった。かわいい子がかわいい声でいうならまだしも、ブスに話をふってあげたら突然変なことを言い出すんだから、嫌に思って当然だ。しかし、この頃の私はおかしいので、何も気にしない。


私にはブスでダサいことを正当化する理由があった。それも母だった。

治療の副作用で、去年よりもずっと肌全体が黒ずみ、髪の毛はとっくに抜け落ちてウィッグをつけていた。綺麗な盛りでいいはずの18歳の私の荒れない肌や、一度も染めていない艶のある髪を、帰省するたびに羨ましがった。

母に、そんな意図がみじんもなかったことは、分かっているのだが、私は少しでもみすぼらしくいることで母に寄り添おうと思った。生きるか死ぬかで戦っている人を応援したいのに、自分がやれ可愛いだ、やれお洒落だ、やれ恋愛だなどと言いたくなかったのだ。これはただの私の独断で、エゴだった。母への愛は、どんな形でもできるだけ多く表現したかった。


そんなことなど知る由もない、今年の1年生はダンスがうまいか、あるいは可愛いか、イケメンかが大事なサークルを、私は一方的に嫌っていた。可愛くないと思われているのが、あまりに明らかだった。美人で愛想のいい友人たちと話しているとよく友人たちだけが先輩たちに引き連れられて居なくなって、私だけその場で突然ひとりになることがあった。しょうがない、皆、若いから。そうやって強がっても、本当は少し寂しかった。もともと、顔やスタイルは全く恵まれていないにしても、きっと身だしなみを整えて、にこにこしていれば、話しかけてくれるコミュニティではあるようだった。

だったら、そんな、笑ったり踊ったりしてる場合じゃないのなら、やめてしまえばいいじゃないか。

何度も思った。しかし、高校時代ダンスが大好きで、他のことは何もしなくていいくらいのめりこんでいた、元気な私が好きだった母は、

「私のせいで辞めないでほしい」

と、いま思えば、参加自由のたかがサークルに、まるで内閣か何かかというように休まず出席するよう言われた。



1年生の文化祭は、母の命日になる日の一週間前だった。

LINEの返信が遅くなって、「今日も吐いた」とか「今日も寝られない」とか「ホスピスに行くことになった」とか、送られてきて、「じゃあ周りに病気のことを言わせてほしい。ダンスもやめて帰る。」と言ったが、ダメと言われたのを覚えている。父と不仲な姉は、母の体力的に私がいないと捌けないから、私と合わせて帰省するように言われた。

だから、父からも、姉からも、文句を言われたけど、帰らず踊って、動画を送った。笑えてたはずだ。たぶん、そうだった。


やっと帰れた時、母は終末期医療センター、いわゆるホスピスのベッドで、かろうじて息をしていた。目はほとんど閉じていたが、私たちが来ると気力で

「おかえり」

と、ちいさく喋った。

心配されるのを嫌う母のために、私たち姉妹はなるべくいつも通りに話した。こういうことがあったとか、今後は大学休もうかなとか、全部今話すことで合ってるか分からなかったけど、途切れないように明るく話した。

「まくらの方に…」

どう見たって気力だけで生きて、私たちを待っていてくれた母。やっとお願いをしてくれたので、私は母の背中に両腕を回して、枕から少し離れていた上体を枕側へと移動させてあげた。こんなときにならないと、こんな形でしか、ハグができない私は、本当に情けない人間だなと思ったのを覚えている。


帰ってから、姉に静かに怒られた。姉はずっと帰りたいと言っていたのに、私が授業やらダンスやらでここまで伸ばしたのは確かで、どう見たって別れが近いのも私たちが一番痛感していて、謝っても取り返しがつかなかった。もっと話せるうちに、何で帰らなかったの、なんて言われなくても分かっていた。だから、ごめんと言うしかなくて、そもそも父と口を利かない姉もそれ以上は何も言わなかった。


私たちがホスピスに2日通って、次の朝方に、母は亡くなった。

たぶん、私は一番用意が出来ていて、一番冷静だった。私は、母にずっと、何かあったらあなたが頑張りなさいと、あとは頼んだと言われていた。絶対に治すと言うことがほとんどの母が、一度だけこぼしたお願いだった。

むせび泣きながら父が私たちを起こして、もう何年も口をきいていない父と姉が同じ車に乗って、不安そうな兄に皆で声掛けをして、ホスピスへと向かう車の中は、もう私の味方がいないことを悟るには十分に重たかった。


兄が思ったほど取り乱さなくてよかったと思った。私も姉も涙は勝手にこぼれるけど、兄を守るために気は確かでいられた。先行きが見えたら安心するはずなので

「これからお母さんは天国に行くんだよ。〇年間ありがとうございましたって、お別れしようね。おつかれさまって、バイバイって言ってね。」

と伝えると

「お母さんは追悼。バイバイです。ありがとう。」

と叫んで、言われるがまま、恐る恐る頬を触った。いつも元気で優しかった母の、全く違う様子に少し怖くなったようだった。

彼が見てきたのは、私とそっくりの小太りで、いつもにこにこしていて、誰とでも仲良くなれて面白くて、料理が上手で、まるで彼が障害なんか無いように接して、毎日送り迎えをしてくれる、そんなお母さんだった。兄が起きてと言えば、今までならおどけて小ボケ付きで起きたに違いないのに、起きないのが不思議でならなかった。よほど疲れていたのだろうか、史上まれに見る安らかな寝顔だった。なんて、少しでもボケを挟まないと、オチがないと怒られそうである。


正直、思った通りで、精神的支柱である母を失った葬儀は、本当に生き地獄だった。

父は公の場では冷静だが、葬儀の準備では暴走、姉はそれに文句を言い、私は意見を取り入れつつ父を説得して葬儀の準備を進め、その間姉は走り出した兄を捕まえに行って、踏んだり蹴ったりなまま、葬儀が始まった。昔お世話になった人たちも顔を出してくれたのでプチ同窓会みたいにもなりつつ、そして帰省するタイミングが遅かったり、それでもなお実家に戻らず在学中は一人暮らしをしようとする私を、身内がヒステリックにしかりつけたり、飾っている写真を誰が持ってくとか言い争ったり、見なくてもいい人間の悪いところを全部煮詰めたような数日間だった。でも、私は、ちゃんと笑って挨拶してお酌して、いい子にしていた。

「おかげさまでいい葬儀になったんじゃないか」

満足そうな父に、私も姉も少なからずあった改善点や、今後のために話し合いたいという旨を伝えると、疲れていたのだろう、父は怒りだして手が付けられなくなった。でもその時だって、いい子にしていた。


やっと緊張の糸が緩んで、涙が出たのは一人暮らしの家にいったん物を取りに帰る電車の中だった。



ぜんぶが、嘘みたいな悪夢だった。なのに、本当に起こったことだった。

それでも、死が目前に迫っていても

「はやく元気になりたい」

とLINEで送ってきた母に誓って、私は強く生きようと思った。


本当に、本当に、生きているだけで辛くて、あれからもあらゆる争いの中で私は積極的に出しゃばって指揮をとり、兄に叩かれても、父と言い争っても、姉と険悪になっても、なんとか持ち直した。全部、母のためだった。もういないのに。


本当は1年生の時、楽しかったこともいっぱいあった。

別で入ってたサークルの合宿はおもしろかったし、イギリスにも行って一生の仲間もできたし、クラスでなかよくご飯に行くのも心強かったし、実はダンスサークルの美人たちは高校からの付き合いでとても頼もしかったりもしたし、やっと心から踊りたくなった時に理由も聞かず即OKでショーケース出してくれるおもろい友人もできたし、バイトは私に理解を示してくれたし、姉ともより仲良くなった。


でも、やっぱりどうしても、私が身を削って、死に物狂いで駆け抜けたのって、母の死だった。それで頭がいっぱいだった。


だから、今回は母の死にフォーカスを当てて、青春とさせてもらった。

こんな青春で、すみませんね。



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