記憶と拘束
かつて大切だった人の誕生日。一度染み込んだ記憶は自身が手放さない限り、不可逆性のものだ。かつては甘美な記憶が、時を経て、苦々しいものに変容するとは想像しただろうか。齢を重ね、みっともなく厚くなった心でも柔らかな疼きは残る。忘れられない限り、完治はない。知ることの恐ろしさがようやく分かるようになってきた。
判断に感情を宿してはいけない———分かってはいた積でも ”知る” という単語一つにもそこに「善」「良」「尊」などの抽象的心象に基づく漠然とした属性の様なものを無意識に付与してしまっている。知識を増やすことは絶対的に善であるという誤謬。大切な知識ほど忘れることがないならば、それは永遠の伴侶にも、不治の病にもなり得る。そしてそれは全て自分に依存する。他者であっても、運命などの他律的なものであっても、畢竟全ては自らの裡に収束されるものであるから。今日の日付も自分次第で変えられる可能性はこの瞬間でも有してはいる。、、、、けれど至らなさによって、この日は記憶されるのだ。
忘れたいほど忌まわしいものではない。けれど覚えていたいとも望んではいない。ただ、思い出されるのだ。もはや本人の意思とは関係なく。
こうして想いを馳せているなんて、本人は夢にも思っていないだろうな、という確証のない想像に逃れて今日が暮れていく。