『透明人間』
世界がコロナ禍で硬直していた頃、自分は悠長に家の不用品の整理を思い立ち、押入れの最奥に忘れたまま取置かれていた小型のトランポリンを見つけた。処分するよりも誰か使ってくれる人に譲ろうと思い、ならば状態確認をと組み立ててみる。そして半ば必然の流れとして部屋で様子をみながら跳ねてみると、想像以上に反発し、想像していたよりも遥かに、楽しい。欲が出る。もっと加減せず飛んでみたい、といそいそとバルコニーに運び出す。
自室は集合住宅の最上階だけれど、低層なのであまり手前だとただ立っているだけでも隣から見えてしまう。隣には路地を隔てて幼稚園があり、その日もいつも通り園児たちが賑やかに運動場を走り回っている。幸いバルコニーは構造的に隣に対して奥行きがあり、一番奥まで行くと隣からは全く見えなくなる。飛ぶところを絶対に見られてはいけない。絶対に。けれど一度火が点いた情熱も止められない。
急いで置いてあったものを片付け、出来うる最奥にトランポリンを設置し、慎重に事を運ぶ。先ずは様子を窺いながら小刻みな跳躍から。情熱はそのままに、頭は冷静だ。しっかりと逸る心に手綱を握れている。少しずつ跳躍に力を込めていくと、相当頑張っても隣からは見えないのが確認出来た上で、そこからは情熱に身を任せて楽しんだ。
跳べば跳ぶほど心もまた弾み、大きく足を広げてみたり、空中で丸まってみたり、時を忘れて満喫していた。それでも恥ずかしいという自覚の為だろう、自ずと隣に背を向けて跳んでいたが、フィギュアスケートを真似て回転した次の瞬間———スロー再生の様に、少しだけ覗いた幼稚園の運動場の園児たちの中から、明らかにこちらに向けて笑いながら手を振っている女の子二人だけが、何故だか魅入られた様に焦点が合わされて瞳に飛び込んで来た。
着地するやいなや、膝は全ての運動エネルギーを相殺し、そこにはトランポリンの上で真顔でスパイダーマンの様な姿勢で身を屈めている中年男性がいた。我ながら、全てを生死に関わる本能の次元で反応していたと思う。それほどまでに瞬間的でありながら極めて滑らかな動きだった。
理性の世界に戻って来ると、悪い想定ばかり浮かんで来る。今立ち上がって顔を出すのは不味い。彼女たちの記憶に刻まれてしまう。ましてや人相など絶対に彼女たちの記憶に定着させてはならない。反応するなど以ての外だ。子供はその純粋な心でまっすぐに騒ぎ立てるだろう。そうすると自分の奇行が瞬く間に他の園児に伝播してしまう。そして子供には際限が無い。そうなったら以後、洗濯物を干しに出る度に、こちらを見つけて手を振ってくる子も出て来るかもしれない。そしてそれもまた瞬く間に伝播し、大きな動きとなった園児たちのその視線の先を、先生は訝しげにこっちを見るかもしれない。そうなるとあっという間に「近隣の要注意人物」に昇格だ。事によると親御さん宛に注意喚起のプリントが配られるかもしれない。隣の家のバルコニーの端から規則的に一瞬だけ飛び出してきていた頭は幻だったと思わせなければならない。
・・・・・スパイダーマンの姿勢のまま、瞬時にそこまでを演算処理し、慌てて今度は本物の蜘蛛のように這いつくばったままトランポリンを片付けた。
経緯こそ違えど、そこから当事者意識を以った、自分の厳密なステイホームの遵守が始まった。