『フラッシュバック瞬き』

「犬の喧嘩やな」
車内に乗り込み、二人きりになった途端、先輩は苦々しい口調と少々のしたり顔でそう呟いた。ほんの暫しの沈黙、、、、、の後、自分がはばかりながら進言する。
「先輩、恐らくですが、それを言うなら『夫婦喧嘩は犬も食わない』を言いたかったんじゃないでしょうか。それだとドッグファイトで戦闘機同士の戦いになっちゃいます。」あえて慇懃無礼を装うのは先輩と自分との関係性からだ。そこがこの話題の "遊び" になる、と判断した。
運転席の先輩は表情を気取られぬ様に前を向いたまま、「おう、それや」とだけ返す。助手席の自分もそこに先輩の矜持を感じとり、損なわぬ様に真っ直ぐ前だけ見続けて深追いはしない。
若い頃、家族経営の会社に勤めていた或る日、朝礼で社長夫妻の口論が始まり、気まずい雰囲気の中、追い立てられる様に飛び出した車内での会話。先輩の発言から自分の訂正までの一、二秒の沈黙。我ながら不思議なほどに、様々なことが考慮された上で(当て推量とはいえ)正解が導き出される。その一瞬の "" に互いの人柄や関係性が凝縮され、会話が展開される。この間は一、二秒であって一、二秒ではない。一秒であっても、一秒以上を生きている。

朝の通勤の時間帯に電車を利用するとホームに誰かの吐瀉物が飛び散った痕跡が、前夜の名残の様に生々しく残されていることがある。 往々にして朝、目にするそれは駅員によって具体性は洗い流されているけれど、まるで影絵の様にかたどられた紋様だけが残っている。
それを見る度に、心中で、昔観た映画の『エイリアン』ほどではないにしても、人間の胃酸も中々に強酸性の液体なのだなぁ、と毎回思う。そう考えながら自分の記憶の中の、エイリアンの滴る唾液が煙を上げながら床を溶かしている場面が意識を流れていく。それに付随してシガニー・ウィーバーが眼前までエイリアンに迫られている場面や、胴体を真っ二つにされた人造人間が白い血を流す場面なども同時に駆け巡っていく。
ここ迄を、毎度毎度、殆ど自動設定の如く、条件反射的に頭をよぎる。そしてこれは何十回、何百回と繰り返された思考の定型化によって、僅か一、二秒に圧縮されている事に気付く。予め知っていれば通過中の電車の行先表示もなんとか判別出来る様に、知見が補助となって思考を圧縮している。極限まで簡略化されて原型をとどめていない挨拶の様に、初めは意識のうねりに任せて数十秒かけて思っていた内容が、反復の極致において凝縮され、単純に思考と呼ぶには憚られる、少し別の性質のものに変容したように思われる。
それは知覚出来る最小の大きさ、長さまで凝縮した粒子の様な印象。一秒ではなく、0.5秒、0.3秒、、、と自分が判別出来る極限までの時間。その中に思考定式と画像、映像や抽象画の様な感覚の海の様な言語化以前のもの、などと一緒くたになって封入されている。そして、ホームにてその痕跡を目にした時、それらが一瞬にして脳内をぜ巡る。それが劇的であれば、時に走馬灯であったり、フラッシュバックであったりと名付けられたのだろう。しかしそれは日々のくだらなさの中にも息づいている。名前を付けて話題にする必要がないとしても。この時、一秒の中で一秒以上を生きている。
空間的に考えた時、ワンプッシュの自動式の傘の様に瞬時に多くの像が爆発的に展開する。その展開がまた別の何かを誘爆することもある。そしてその新たに巻き込まれた何かは、新たな連環として、加えられて収斂したりもする。どんどんと時間も空間も圧縮されていく。
電車の中で目にする、忙しなくする多くの人々。携帯を睨む人、化粧をする人、パソコンに向かう人。彼らは一秒を一秒で生きている。これを照合してみるに、存外、何も考えず呆然としたさまの人の方が、濃密な時間を過ごしているのかもしれない。より多くに思いを馳せるほど、その内ではその時間以上の時間が流れている。時の旅。
愛憎半ばするような人との間には、それがもはや粒の様な単位を遥かに超えて、地層の様に、宇宙空間の様に、どれだけの凝縮が生じているのだろう。長年連れ添った夫婦の見せる、えも言われぬ笑顔の中に。ぶつけた恋人にすら届かぬほどの声量で「ばか」と呟く言葉の中に。

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