『忘れっぽい天使』
読書中、どこからか笛の音がするのに気付いた。縦笛を思わせるヒョロヒョロとした心細い音だけれど、淀みなく奏でられる音色だからこそ、穏やかに背景の溶け込み、気付くのに時間がかかったのだろう。
音色に誘われるように屋上へ。夏らしい雲が見渡す限りに広がっている。昼下がりで暑さが落ち着いてきたのもあって、多くの人が寛いでいる。すぐ目の前には男の子を連れた若い女性が楽しそうに写真を撮ったりしている。会話も意識するとはなしに聞こえてくる。
「今日はこんな良いところにこられて、楽しかったねぇ」
「うん!でも今日まだ楽しい事がある!」
夏の景色を堪能しながら背後の会話を聞いていると、自分まで秘やかにこの幸福にあずかった気になる。
何より羨ましいのは、幸せを感じた ”瞬間” にそれを幸せだと思えている事だ。世界には事象があるだけで、幸せの最終関門はそれを幸せと認識出来るかどうかにある。これは決して当然の事ではない。回顧した時に初めて(あの時は幸せだったのだ)と気付かされる経験がある。その不幸の本質は、現在との対比の中で相対的でしかない幸せに原因を求めがちだけれど、その瞬間毎に感覚出来なかった ”相対的な認識” にある。年長の人から聞く、かつての景気の良い時代の昔話に往々にして表れる、あのほろ苦い感じ。
自分に限っても、当時は辛くて(辞めたい)とばかり思っていた部活動の思い出。やりたいことも見つからず(意味がない)と思いながら通っていた大学時代。怒られてばかりいた職場での新人時代。
今辛いと嘆く人への相対論 ———「昔に比べれば、、、、」「もっと辛い人が、、、、」「他所では、、、、」。けれどそれを持ち出すと、どこまでも比較対象は下げられるし、即ち軸は一定しない上、常に己より ”下回るもの”を探し続けるという、結果的に最もその本質から遠ざかることになる。
唯、快か不快か、という脊髄反射のような単純さへと還ってくる。回顧とは対比であり、感覚とは瞬間。つまり常に即時的なものでしか無い。それをあまりに長く続いた悪習で、あたかも瞬間的に対比を行えてしまっている。息をするように。要らぬ部分だけ熟練し、本人すら気づかぬほどに。大人は凄まじい速度で演算処理をしているのだ。その結果、失われた過去の中に幸せを見出す羽目になる。幸せの最も惨めな形態。見つけた時には腐っているのだから。けれど捨てるには忍びないと冷凍庫に取っておく———。
そんな事を再び席に戻って考えていたら、いつの間にか笛の音は消えてしまっていた。時折、意識的に耳を澄ましてみたが、もう二度と聞こえてはこなかった。