町の人A
朝、8:55。9時からのラジオに間に合うように階下へゴミを捨てに行く。何とか本日の回収に間に合い、自室へ戻ろうと踵を返した折に、背後より「すいません」と呼び止める声に振り返ると、中学生ほどの男の子が携帯を片手に駅迄の道程を尋ねて来る。その声の調子は多分に焦燥の気が感じられ、手短に指差して案内するや否や、すぐに駆け出して行った。
確かに初めての人には分かり難いかもしれないな、とゴミ出しの際、携帯を凝視しながらも覚束ぬ足取りでこちらに向かって来ていた彼を視野の端に見るともなしに捉えていた記憶を反芻しながら部屋に戻る。そしてお互いあのタイミングでしかない点と点との衝突が、こうして逆算的に考えるにつけ、つくづく奇跡のようだと思えてきた。と同時に、自分があたかも彼が主人公の物語に、”町の人A” として、計算され尽くしたタイミング彼の目の前に現れた様に思えてならなかった。部屋着でただゴミを捨てに来ただけの自分が主人公の訳が無い。何処かを目指す若者と較べるまでもなく。
人生の物語の折々には、どうにも説明のつかない奇遇や縁がある。それぞれが主人公であるそれぞれの物語に於て。今朝はまさに彼が縦糸を織りなす”綾”に、完璧なタイミングで現れて的確な助言をする者として、細く横糸として加わったのだな、と思う。自らが主人公を務める物語に於て、自らの脇役を務める———中々に面白い体験だった。そして何よりもこちらの物語の主人公としても、朝から人の手助けをしたという満足感で快い心地になった。彼は何とか間に合っただろうか。あっちの世界でも良い作用を及ぼしていれば良いけれど。もう既に顔の記憶は千々に霧散してしまう程度の微かな縁ではあったものの、脇役ながらそっと思いを馳せる。
この文章を書いた図書館からの退館時、バイク置き場で「走るのに気持ちの良い気候になって来ましたね」と、初老の男性に話し掛けられた。応じると、立て続けに彼は自分はタクシーの運転手で、つい最近大きな問題があり、女房も少し前に亡くなったものだから、思い切って有休を取ってバイクで何処か遠出を考えていて今日はその下調べに来たのだ、と朗らかな調子で教えてくれた。そこには耐え難かったであろう悲しさや後悔を日常の会話に溶け込ませる程の強さがあると思えた。同時に、饒舌に喋り続ける彼を受け取ってあげねば、と直感せられた。そこから暫く会話は続いた。こちらのお薦めに対して向こうも思い出を交えて応じる。時折亡き妻との逸話も織り込みながら。
齢は69だという。その齢までずっと一緒だった人を失う衝撃は如何ばかりだろう。そしてその名残の消えぬ中、老いた彼を旅に駆り立てようとする問題は、弱った彼にどれほどの容赦のない追撃を与えたのだろう。勿論粒立てて聞くような事はしないし、こちらのこの慮りも勝手な想像に過ぎない。けれど疑ったり、否定的に考えるよりずっと良い。お互いに、そしてその後ろにそれぞれ控えている多くの人にとって。
しかしその反響として、もうひとつの思いもその裏に低く流れている。(お前は自分が同じ様な弱さを持つまで、多くの弱き者を一顧だにしなかったではないか)と。自分が弱者の側に回った途端、同じ様な境遇に気遣うのは打算であり、優しさとは少し違ってくる。けれど、自分の様な(余り美しいとはいえない)過程を経ても、その思いが外界に出力された時、同じ「優しさ」と銘打たれる。経緯は時の向こうにあり、どうすることも出来ない。けれど結局のところ、優しさを出力する”今”が全てだ———そう思えるとこの身に宿す淀みも少しは晴れる気がする。(これすらも”どう自分を言い含めるか”というだけ、という見方もできるけれど。)
男性との会話が楽しい旅の思い出や新しい旅先の提案から、政治的な批判へと話題が移ろって行ったあたりで、潮時だとバイクに跨って別れを促した。
今回も主役は彼だろう。邂逅までの物語の厚みが違い過ぎる。けれど自身も朝の少年の時とは違って、”不意に出会って少し心を軽くしてくれた人”くらいには昇格出来たかもしれない。そして実際に彼の物語にもそう記名されていたら嬉しいなと思いながら帰路を走る。