小説『Butter』とバタークリームに溶けた年末
柚木麻子さんの小説『Butter』。2017年上半期の直木賞の候補作でした。
これを読んだ私はこの世界に深く深くはまってしまい、一時期は毎日のように文庫本のページを繰っては読み、味わっては、また読んでいました。
なぜこんなにも惹きつけられたのか。
・この小説が下敷きにしている実在事件を思い出したから。
2010年の事件です。詐欺と殺人の容疑で一人の女性が逮捕されました。テレビも新聞も週刊誌も、この事件を大きく報道していました。
犯人は、私と同い年です。当時の私は事件への興味が止まらず、ネット記事のサーフィンにはまり、ついには虚実のわからないコタツ記事まで読み漁ってしまいました。
・登場するバター料理をどうしても食べてみたくなった。
作品では、美味しい食べ物について次々と語られます。その多くは犯人がこれまでの生活で味わってきた美食ばかりです。本人は現在、塀の中。その彼女の渇望が、求める食の魅力をさらに増しているのです。
そして、なんと言ってもバター。
食に無頓着な主人公が、犯人から指示をされ、買い物をし、バターを口にする。その美味しそうなことと言ったらありません。
『Butter』柚木麻子/著
ストーリー紹介
雑誌記者の里佳が取材をする相手は、東京拘置所にいる“カジマナ(梶井真奈子)“である。梶井は出会い系や婚活サイトで自分を売り込み、恋愛関係になった3名の男性は、結婚前提である(と信じていた)彼女に多くの資金援助をした末に、命を落としていた。
逮捕直前まで、梶井は自身のブログを更新している。
その内容は、日々の美食と贅沢に溢れ、食べ歩きやお取り寄せを楽しみ、本人はかなりの料理自慢。レディのたしなみや教養を語り、はなやかな生活を宣伝するものであった。
主人公はカジマナの本心を知りたいがために、接近する。
カジマナの餌食となったのは、40代から70代の独身男性であった。彼女は知り合った相手が求める環境を演出し、結婚を期待させた。それと引きかえに多額の金を引き出したのだ。
カジマナは決して若くなく美しくもない。そして、何よりも女は痩せていなかった。世間は彼女の容姿と罪状のギャップにどよめく。
男女交際の行き着く先は、事故や薬物の過剰摂取による男性の不審死であったが、彼女が相手を殺害したという決定的証拠は欠けていた。
裁判の一審で、被告人は女王のように悠然と振る舞った。無期懲役の判決が出るなり即日控訴している。
「なぜこんな女が」「すごい食べるんだろ」「よく結婚詐欺なんてできるよな」「よほど料理が美味かったんだろう」
世間の多く(の男)が、見下すように独自のカジマナ論を吐いていた。報道記事はもちろんスキャンダラスである。
そんなカジマナは、拘置所での面会取材には一切応じなかった。
しかし、主人公の里佳は、友人の助言をもとにカジマナとの面会を取り付ける。とうとう記者としてインタビューを取るチャンスがやって来たのだ。
目の前に座るカジマナ。
彼女は事件の核心を出し惜しみつつ、自身の欲望と価値観に忠実な、自信にあふれた姿を里佳に見せつけた。
それは、その後の里佳の日常をすっかり「カジマナ色」に染めてしまうものだった。
バター!Butter!バター!
期待して駆けつけた里佳を、カジマナ(梶井真奈子)は、暇つぶしの話し相手であるのだと言いました。
彼女がいま会話をしたいのは、塀の外の世界にある、美味しい食べ物についてです。
里佳はカジマナのご機嫌を取り、どうにかして彼女の心を開きたい。しかし、自分は今も仕事に追われながらコンビニのおにぎりを食べてきたばかり。
美食の話題で彼女を喜ばせるのは難しそうです。
カジマナが聞きました。
カジマナの表情が険しく変わりました。
そして、バターがマーガリンよりもどれほど良いものかという持論が、実になめらかな口調で、くどくどと、相手を見下すように展開されました。
最後に、里佳はカジマナから課題を出されるのです。
その日、里佳は炊飯器を買って帰宅し、バター醤油ご飯を作ります。夢中で食べ、気がつくと米1合分を胃におさめていました。
もっと、もっと食べたい。追加して2合の米を炊きました。
真夜中のバター醤油ご飯。カジマナの魔力。
里佳の中では、バターを味わう味覚とともに、さらに目覚めていく意識がありました。
銀座ウエストのバタークリームケーキへの欲望
「私の代わりにウエストのクリスマスケーキを食べみて」と里佳は指示されます。
銀座ウエストのクリスマスケーキは、バタークリームケーキ。カジマナが逮捕される前に注文したかったケーキです。
私は思いました。
(バタークリームケーキ…って美味しいの?)
私にとって「バタークリーム」とは、遠い昔の子供時代、お土産でもらったことのあるケーキの味です。まだ本物の味を知らなかった、幼い味覚の思い出で止まっています。
それ以降は「ケーキは絶対、生クリームに苺が載ってるやつ!」というルールに乗ったまま大人になりました。
そう、本物のよく出来たバタークリームケーキなんて食べたことがなかったのです。
『Butter』を読んで、40年越しのチャンスが巡ってまいりました。
カジマナお気に入りのウエストに向かいます。
銀座ウエスト青山ガーデン店へ
調べたところ、銀座ウエストのクリスマスケーキはホールケーキを指定店舗で受け取る、予約販売のみの取り扱いなのだそうです。
店内の喫茶でクリスマスケーキを食すことはできませんでした。
残念でござる…
しかしね。
ウエストにはレギュラーメンバーとしてバタークリームケーキがあるのです。ふふ…
銀座ウエスト青山ガーデン店。お店は席の予約ができません。
14時に訪れた喫茶。順番待ちの番号札は61番でした。神よ。
すぐ向かいには青山霊園があります。美しい散歩道と鮮やかな銀杏の下を散策して、時間をつぶしました。
ここには忠犬ハチ公のご主人、上野先生のお墓があるんですよね。隣にはハチ公の碑が立っています。
ハチ、お願い。どうか今日のバタークリームケーキが売り切れていませんように。
ウエストのケーキ。とうとう会えました!
フォークを入れると感じられるのはしっかりとしたバタークリームの手応え。
そっと舌に乗せると、まずはクリームの硬さと冷たさを感じ、ほどよい塩味もやってくるのが心地いい。
そして…ほどける。口の中でほどけます。
ほどけたクリームは喉の奥へ消えました。鼻腔に残るバターの香りは、透明感すら感じます。ああ、名残惜しい。
『Butter』で、カジマナは言います。
その通りでした。このバタークリームも「すっと落ちる」感じがありました。
2023年末。銀座ウエストで、バターの幸せを見つけました。
終わりに
今回紹介したのは、小説『Butter』のほんの一場面です。
この先、カジマナとのやりとり重ね、自身の価値観も外見も変化していく里佳ですが、彼女には伶子という親友がいます。
里佳がカジマナ面会を取り付けることができたのは、実は伶子のおかげでした。
「料理自慢のカジマナにレシピを聞いてみたら?」という助言の効果があったのです。
しかし、カジマナから発された強い「毒」は、里佳や伶子がこれまでの人生でずっと感じ続けて来た生きづらさの原因を、苦くも掘り起こし、あざ笑うものでした。
それは彼女たちだけでなく、恋人や夫の運命さえも変えてしまいます。
『Butter』。ぜひ読んでみてねーーーーー
おまけ。森永「ムーンライト」いいよね
拘置所にお菓子の差し入れをしようとして、里佳が売店で迷ったのが、森永の「ムーンライト」と「チョイス」でした。
バターが使われているので里佳は「チョイス」を選んでいます。
でも私、「ムーンライト」が好きなんですよね…
青い箱もきれいだし。さっくりしてるし。
カジマナが嫌うマーガリンを使っていても、美味しいものはありますよ。