魔境アラザルド4 幻影騎馬団③
第一部 五王君
一章 幻影騎馬団
3
月が煌々と照らす惨状、破壊された町。
瓦礫と死体。
ユスの町は、沈黙の支配下に落ちていた。
時々通る追い剥ぎや盗人の影。
罪と生きることの狭間。
彼は、すべてを焼き尽くす。
彼は魔王。
私のただ一人の主人。
私の神。
一人の魔人が、過ぎた災厄の跡を、表情を変えることもなく通っていく。
彼の名はレーリック。またの名を『朱燎』という。自分の魔境を持つ強魔人は、皆本名とは別の呼び名を持つ。
呼び名の多くは自分の魔力の特色「魔特性」を表すが、彼の場合は「朱色のかがり火」の名のとおり、真っ赤な炎を扱うことに長けている。
赤い髪と赤茶色の瞳であるのも、たまたまではなく必然だ。
彼の血筋は赤い毛色と眼を持つ。
色と特性は相乗する。
炎は赤い、ゆえに赤の特質を生まれながら持っていることは、炎を扱うのに適しているということなのだ。
「…我が君」
呟いたレーリックの前に、ぼんやりとした人形の影が浮かんだ。陽炎のように揺らめいて月夜に波立つ。
「お前、いつまで続ける気だよ…」
相手の声は苛立っていた。だが、その歪んだ唇さえも美しい。彼が唯一魅了された人物は、すべてが完全で、悪態をつこうが、その声すら弦楽器を奏でたように響く。
「は。貴方様に、殺されるまでです」
「気狂いが」
忌々しいものを見るような視線を投げられるが、その視線を受ける刺激もまた彼を恍惚とさせる。
陽炎の中にいる人物は、一つ舌打ちをすると、大きな溜息を吐く。
そんな主人の呆れ顔を愛でながら微笑み、レーリックは静かな声音で訊く。
「ところで、あの弱者の子どもを如何なさるおつもりですか。取るに足らない者と存じますが?」
「お前には関係ねーだろ、関わるな」
「…はい。はっきり申し上げて興味など微塵もございませんが、我が君が関わるとおっしゃいますなら、気にはなります」
「鬱陶しいんだよ」
彼の主人は、いつものように容赦なく吐き捨てる。
「は。存じております。ですから、どうか私を羽虫のように他愛もなく焼き殺してください。貴方様のその天上をも焼き尽くす漆黒の尊き炎で。それが私の歓び、最上の死に様なのです」
彼はひざまずいて、赤い前髪の隙間から主人の様子を窺う。
案の定、陽炎の鏡の向こうで、ぎりぎりと歯ぎしりの音がして、美しい彼の主君は怒りを露わに、罵り声をあげる。
「ああ! 鬱陶しい!鬱陶しい…!鬱陶しい羽虫め! 野垂れ死ね! 貴様の歪んだ忠愛にはもういい加減うんざりなんだよ。幻影騎馬団を俺の遊興に見せかけやがって…迷惑も甚だしい!」
だが、主人の激昂にも、レーリックはやはり静穏そのものの声で応じる。
「ならば、お止めくださればいい。貴方様には息をするより簡単なことでしょう?」
「…糞野郎が。お前の思う壺になんかなってたまるか」
低く呟き、直後に陽炎の鏡は消失した。
「ああ…我が君、やはり貴方様は私にとって最上の方。お会いできた今日は、私の吉日。貴方様に魅了されて以来、私の毎日は至福の輝きに満ちています。貴方様の声、視線、表情、身振り、振る舞い、絶大なる魔力、すべてが美しく至上であります。炎の本来の特質である赤を無視した尊き漆黒の闇の炎…私の平凡な朱の炎など及びもつきません」
レーリックこと『朱燎』は、己の魔境を持ちながら、『黒炎君』に心酔している魔人の1人で、中でも突出した実力を持っていた。
魔境主たる者は、誰かに仕えることはない。自分で「魔境」という国を造り、自分で王としてそれを治めているわけで、当然臣下もいる。
規模の差は魔力の差ともいわれ、地盤や空間に己の魔力磁場を張り、その範囲を自らの「魔境」と称するのだ。
その範囲が被ることは殆どない。
それは魔力の強い者のほうが磁場を得るからだ。弱い者は移動を余儀なくされる。
拮抗している場合は、争いになることもあるが、魔境は点在するのが普通で、境界を接することは少なかった。
ただ、『五王君』と呼ばれる5人の魔境主は特別だった。その破格の魔力の強さと魅力で周囲を圧倒し、本来同格であるはずの他の魔境主すらも従える。
レーリックは五王君の中でも突出した強さを誇る『黒炎君』に魅了され、その臣下を名乗っている。
魔人たちの中には、黒炎君は邪悪で残忍な人柄ゆえ、王君にふさわしくないと評する者もいたが、レーリックにしてみれば弱者の戯言である。第一、かの王君は邪悪などではないし、残忍でもない。それにたとえ残忍であったとしても、それは強者の特質の一つではないかと思うのだ。
炎の魔特性を持ちながら『朱燎』は冷静な男だと言われてきた。自分もそう思ってきた。しかし、黒炎君を一目見たときより、彼は自分を見誤っていたと思い知る。
この熱い滾る心を、受け入れてくれる器など有りはしない。
だから、彼は死を望む。
唯一無二の彼の主君によって、もたらされる死のみが、彼を満たす。
気狂い、そんなことは分かっている。
「黒炎の我が主エリンフィルトさま。私は決して諦めませんので。貴方様もご覚悟ください」
その場で目蓋を伏せ、主君の残像を思い起こすと、彼はまた瓦礫の中をゆっくりと器用に障害物を避けながら、歩き出すのだった。
朝の光が墓地を優しく包み込む。木々の梢には野鳥たちが集い、今日が始まったことを教えてくれる。
昨日の悪夢がすべて偽りであればいいのに、と思うマリュネーラだったが、父の墓は確かにそこにあり、彼女が供えた白い小花が風に小刻みに震えながらもまだ、質素な石の墓前を幾許かは飾り立てていた。
「そろそろ行くぞ」
知り合ったばかりの男が、彼女を急きたてる。少しばかり苛立っているように感じる。
墓の前で手を合わせ、亡き父に自分を守ってくれるようにと願う。
死んでまでも、わがままな娘の言うことを聞かされて、苦笑いしている父の丸い顔が思い浮かんだ。
「ごめんね、お父さん」
マリュネーラは墓標に向かい本当にうっすらと微笑んだ。
「また、そのうち必ず戻ってくるからね」
「早くしろよ。すぐ昼になっちまうぞ。ダーシムへ向かうなら、まず次に行くのは、ドルトスの町だ…。…死んだ者は、この俺でも大冥界から呼び戻せねーんだ。さあ、急げよ」
「分かったよ。でも、いつ戻れるか分かんないんだから、お別れくらいしっかりさせてよね」
ぶつくさ言う少女に、エリンフィルトは溜息を漏らしたが、もう何も言わなかった。
ドルトスへはユスから西南西の方へと向かう。
道は平坦で勾配は少なかったが、所々舗装が剥がれ、石ころがごろごろ転がっていた。
とぼとぼとただ石を蹴飛ばしながら歩くのは疲れた。道の両側は昨日の建物などの残骸と葬りきれないほどの死者たちが折り重なって敷き詰められ、無惨としか言いようがない状態だった。
マリュネーラはよくこれで自分が生き残ったと感心し父に感謝する一方で、あまりの酷さに目を逸らしたくなった。
肉体は引き裂かれて、腕だけだったり、足が無かったり、顔が半分潰れていたり、骨が剥き出しであったりと…とにかく血溜まりでいっぱいで、鴉や野良犬がそれらを突いて散らかしている。
「これでも道だけは、物退かして、とりあえず歩けるようにしておいたんだぜ。あとは面倒だったから、放ってあるけど…見るのしんどいか? 花畑の景色でも見せてやってもいいが」
エリンフィルトが言う。
「ありがとう。でも、構わない。これが現実なんだから」
少女は毅然と答える。
「へえ、そうかよ」
親切心を拒否されて、少し機嫌を損ねたようだったが、エリンフィルトはまた先をてくてくと石を避けながら歩き出す。
しかし、それから、しばらく歩いた先で、再び振り返って訊く。
「…馬に乗るか?」
その提案に対しては、石ころや地割れして凸凹と段差の多い道のせいで、既に歩き疲れてしまっていた彼女が大きく頷いたので、彼は嬉しそうに闇色の瞳をきらりと輝かせ、漆黒の馬を一頭出す。
「一人で乗れるのか?」
「うん。馬は大丈夫だと思う、お父さんに仕込んでもらったから」
「ふーん。そうか」
それを聞いて、もう一頭出す。鞍も手綱も既についている。
「さすが、王君。いい馬だね」
「その言葉は使うな。虫唾が走る!」
マリュネーラは声を出して笑い、軽やかにそれに跨がる。本人の言葉どおり、乗り慣れた様子だった。
エリンフィルトも続くように、ひらりと馬上に跨がり、手綱を引く。
「あんたって、ガラ悪いけど、優しいんだね。あたし、あんたを見直したよ」
「お前なぁ! 焼き殺すぞ」
話し相手がいるのはいい。
孤独を感じずに済む。
そんなことを思いながら、二人は厄災の町を後にした。
火山の島ラウナ。
アルーウェン大樹海のある本陸より引き潮であれば一筋の道で繋がっている。
島の核であるラウナ山はいつ噴火してもおかしくないほど活発な火山で、その火口からは常に煙が立ち上り、本陸の海岸から向こう広い範囲で灰が降り注ぎ、一帯を白灰色に染めている。
この地域をラウナ火山地帯と呼ぶ。
危険なため、人の気配は殆どなかったが…。
ここに魔境を築いた魔人がいる。
それが、朱炎の魔特性を持つ強魔人『朱燎』である。
彼の居城は本陸のラウナ海岸側にあるが、ラウナ島側にも別宅があり、そこは彼の配下の密偵たちと接見する場として使われている。地下には「宝物庫がある」と謂れているが、定かではない。
「ソレイヌ」
彼が呼んだのは、彼が信頼を置いている密偵の1人だ。
魔境主の呼び出しに、即座に応じて現れた女は、畏まってひざまずく。
「先に出したオーガニールが戻ってこない。呼び出しにも応じない。正体がばれて、捕えられた可能性がある。助け出す必要はないが、どうなっているのかを確認してくれ。そして、私に報告した後も、お前に偵察の続行を頼みたい」
「仰せのとおりに。して、どなたの偵察ですか」
「砂漠の魔人だ」
「…砂漠、あの方ですか」
「できるか?」
「はい、すべては我が主のお言葉に従うまででございます。ただ口惜しいのは、あの赤色の女を先にとのお言葉。朱燎さまのご命じに全て従いたいと願うわたくしを後にされたことでございます」
「お前には、別の仕事を任せようと思っていた。今回やむを得ず、引き継いでもらうことにしたのは、ほかに適任者がいなかったからだ。甘んじて受けてもらいたい、何しろ、相手が相手だ。熟練した者でなければ全うできないだろう。オーガニールには荷が重かった。私の人選が悪かった」
『朱燎』ことレーリックは、ひざまずく女の側にまで来ると、片膝をつき、女の耳元に囁く。
「あの男は何を考えているか分からない。危険な魔人だ。だから、お前ではなくあの女を先に行かせたのだ。だから気を悪くしないでくれ、ソレイヌ」
そう言って、女の青色の前髪をかき上げて、その広い額にそっとくちづける。
「朱燎さま…」
青い髪の女は、色白な頬をはっきり分かるほど紅潮させて、うっとりと己の主人を見つめる。藍色の瞳も澄んだ水を湛えたようにゆらゆらと潤んでいた。
朱炎の魔境主は妖しく微笑み、蝋燭の灯りを映す赤茶の瞳を細めて呟く。
「この仕事が済んだら、お前の望む褒美を何でもやろう。…だが、無理はするな。お前を失いたくない」
「は、はい。かしこまりました、我が主」
顔を真っ赤にしたまま、部下の女魔人は立ち消える。
「いい子だな、ソレイヌ」
彼は言いながら、自分は嘘をついた、と思っていた。
先に行かせた女魔人は、もう死んでいるかもしれないと思った。しかし、物好きなあの男のことだ。何かを企んで、わざと生かしておいていることも考えられる。そちらのほうが厄介だ。
それを確認させるために、ソレイヌを行かせた。
「オーガニールは捨て石だ。弱魔人に毛が生えた程度の低能な女だからな。失敗する可能性もあると思ってはいた。まあ、あれより少しはましなお前に期待しているのは嘘ではないが、褒美を何でも与えるというのはな…」
額にくちづけるくらいなら安いものだ。だがそれ以上を望まれても、受け入れられないと思う。
自分には大事な主君がいる。
「お前と同じだよ。可愛い女よ」
青い髪の女のことをほんの少しだけ考えて、彼は接見の間から、海岸側の自城、通称「朱焔華城」の自室へと戻った。
【文末コラム4】 説明が。
今回は、説明が多くなりました。
また、強魔人の一人『朱燎』の初登場ともなりました。
次回は、ユスを出て次に向かうドルトスの町での話になります。
第一部 一章 幻影騎馬団 4
その次は、章が変わる予定です。
ここまで読んでいただきまして、どうもありがとうございます😊
最近の暑さと仕事多忙で、少々疲れが溜まってきました。(今回はコラムも短い…💦)
健康に気をつけて、頑張っていきましょう!