安定を捨て、未知へ
上杉拓哉の物語(続き)
退職願を提出した朝、社長室に呼ばれた。遠縁の親類である創業者が、いつになく真剣な表情で僕を見つめていた。
「本当に辞めるのか?」
その声には、親族としての優しさと経営者としての厳しさが入り混じっていた。僕が静かに頷くと、彼は一瞬だけ目を伏せ、ゆっくりと言葉を選ぶように話し始めた。
「君には期待していた。これまでの投資もある。戻ってきたばかりだが、まだ君を必要としている。条件は何でも飲む。もう少し考え直してみてくれないか?」
好条件の提示だった。昇進の約束、自由な働き方、裁量権。すべてが揃っていた。それは、少し前の僕なら迷わず飛びついた話だっただろう。
けれど、その瞬間、胸に浮かんだのはあの療養生活で考え続けた「本当の自分の人生」だった。
「ありがとうございます。でも、僕は違う世界を見てみたいんです。」
静かだが、揺るぎない声でそう伝えた。創業者はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「お前がそう言うなら、仕方ないな。ただ、この先は甘くはないぞ。魑魅魍魎(ちみもうりょう)がひしめく経済の世界に飛び込むという覚悟が、本当にあるのか?」
「あります。」
その言葉は、自分自身にも言い聞かせるように発した。親族の温情や会社の安定に守られた今の環境を捨てるということ。それはつまり、自分の力だけで未知の世界に挑むということだ。
その夜、僕は小さな鞄に必要最低限の荷物を詰めた。地方都市の安定した環境から離れ、次の日には経済圏の中心地である東京に向かった。そこには、数えきれないほどのチャンスとリスク、そして何より、僕が探し求めていた「本当の挑戦」が待っている気がしていた。
誰もいない静かな部屋に立ちながら、自分の中に生まれた感覚を噛み締めた。孤独、不安、でもその奥にある高揚感――「ここから本当の人生が始まる」。
翌朝、まだ薄暗い東京の街に降り立った僕は、一人で胸を張って歩き出した。覚悟は決まっている。これが僕の選んだ道だ。
次回:新しい世界での第一歩と、魑魅魍魎の洗礼とは…