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「こども食堂」が満たすもの

金曜夜はいつも「こども食堂」のお手伝いに行っています。

ACのCMがバンバン流れているので
「こども食堂」っていっておけばなんとなく雰囲気が伝わるから
いつもそうやって呼んでいますが
実際には貧困支援の食堂メインの居場所ではなく
地域コミュニティの中のサードプレイス、みんなの居場所です。
地域のこどもたちが気軽に遊びにきて、宿題をして、
ボランティアスタッフが学習支援をしたり、食事の提供をしたりして
みんなでわいわい、一緒に食事をし、おしゃべりをする。
そんな居場所です。
まあ「こども食堂」ともいえるのですがどっちかというと「みんなの食堂」と思います。と思っていたら、事業名にもそういう名称がついていました。

そう。「こども食堂」で連想されるイメージは、受益者は利用者にスポットが当てられるような感じがするのですが
いちボランティアスタッフの私にとっても、非常に益がある。
私にとっても、大切な居場所なのです。

こどもたちとの関係性

自分のこどもではない、教え子でもない
つまり家庭や学校でのつながりではなく、地域でつながっている
親でも先生でもない地域の大人という存在でこどもと接しています。
そこには、親や先生との関係性にある親密性や力関係が存在しません。
その居場所を維持していくための規律や安全性を守るために必要最低限の注意をすることはありますが、
互いに尊重し合いながらフラットに関係性を築いていくための
小さな実践の積み重ねがあります。

以前、教員をもうすぐ辞めそうな時に思ったことがあります。
目の前にいる子にとって
親でも先生でもないけれど、その子を気にかけているその他大勢の大人の一人になりたい、と。近所のおねえさんとかになりたい、と。

それがちょっと実現したかたちでしょうか。
もちろん、こどものワガママとかを前にして
色々と難しいなあとか、考えさせられるなあとか思うこともあるのですが
親カードも先生カードも使えないなかで
どうやって折り合いをつけていくか。どうやって見守っていくか。
ということを考える良い経験となっています。

宿題って、こんなふうにやってるんだ。とか
こんなふうにおもわれているんだ。とか
素朴な発見も含めて
教員を続けていたらきっと気がつけなかった視点がごろごろと。

こどもを尊重することについて、日々考えさせられます。
「こどもを尊重する」ってどういうことよ?ということです。
仕事休みの日とか、仕事後にちょこっとしか手伝えていないので
思考もちょっとずつしかできないし
うまくできないことも山のようにあるので。かたつむりの速度ですが。
「こどもの権利」を守るには、大人の覚悟と勇気が必要だと考えています。
(もうすこし具体的に言語化したいけどまた今度)

スタッフとの関係性

毎週、お手伝いに行ってスタッフの皆さんと顔をあわせるようになって
あっという間に3〜4年以上経過しています。
ん?コロナ前からか。5年以上か。びっくり。
「おかえり〜」と迎えてくれることが嬉しい。
すっかり大切な知り合いです。(友達ではないし、、仲間でしょうか)

みなさんとはいろんな話をします。
居場所の話はもちろんのこと、
自分の仕事のこと、愚痴、
互いの健康のこと、家族のこと、
旅の思い出、おもしろかったこと、美味しかったもの
料理の作り方、美味しい味付け、
住居のこと
天気のこと

私は、今一人暮らしをしていて、さらに
19年前に母が他界していることから
同性で年上で子育てを終えたばかりぐらいのスタッフの皆さんとの
何気ない会話が、今まで私ができなくて、
どこかで憧れていた会話で、
時々ほんとうにしみじみと嬉しいなあと思うのです。。
お皿を洗いながら、今日あった話をする。
恥ずかしい話も聞いてもらい、アッハッハと笑いあったりする
そんなあたたかな時間に私はとても、癒されていて、救われています。


「こども食堂」には様々な使命がありますが
スタッフにとってもそこは大切なサードプレイス
安心できる居場所です。

今日は私の体に起きたかなしい異変(体調不良系)の話と
健康診断の話をたっぷりしました。
ぜんぜん体重が減らないとか、いろいろな話。わはは

明日は病院に行ってきます;;





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