小説:狐012「名詞の性」(1210文字)
「走る、は男性かなー」
ダークマターの研究者・ヒトエさんが言い放つ。黒いハイネックのニットを着ている。
「まあ、ちょっと偏りがあるような気もするけど、うん、まあ、男性でいいと思う」
と多浪中のタロウさんが受ける。ウーロンハイに口をつける。
「じゃあ、歩く、は?」
「歩く、は、中性じゃないかな?」
「中性は無しって言ったじゃん」
「あ、そっか。うーん、どちらかというと女性かな」
「そうしておこうか。じゃあ、待つ、は?」
さっぱり何のことか分からない。宇宙物理学を突き詰めると、言葉遊び(のような何か)に興じたくなるのだろうか? 賢い人の頭の中はまさにブラックボックスだ。
すると、側で聞いていたマニさんが語り出す。
「文法上の性の話題ですね。例えばフランス語の名詞なら男性と女性に、ドイツ語なら男性、女性そして中性に予め分類されています。
でもそれは名詞だけであって、動詞には無かったはずですが?」
「正解! その通り。無いから、もし動詞にもあったら、っていう話をね」
とヒトエさんはちょっと嬉しそうだ。更に続ける。
「さて、待つ、だけど……
この待つ、についてはずっと気になってるんだよね。待つ、っていう動詞ってさ、物理的な動作としてはほぼ無いに等しいんだけど、心理的な構えや準備としてのポテンシャルがかなり大きいよね。待つ、って実は何もしないわけではなくて、心の中の動きが大きい。不可視の励起状態っていうか。待つからにはたいてい何かを待つわけでしょ。目的語を伴うから他動詞。その待つ何かに対してその人は、今は行為をしないけれども心理的には劇的な活性状態にある。確認できていないだけでとてつもない絶対値を持っている。備えたり、先のことに想いを馳せたりしてる」
「なるほどな。おいらはここでカズミちゃんを待ってる。それは確かに意義深いことだな。うんうん」
ふいにスミさんが入り込み、一人強く頷いている。
ヒトエさんの言っていることを面白がる自分がいる。私はここで何かを待っているのかもしれない。この『狐』で。
ただその目的語が何なのか特定しきれずにいる。しかし、待っている、という感覚は明らかにある。待つ、という一見受動的な動詞に垣間見える能動性。内包しているエネルギーの強さ。
タロウさんが
「待つ、は男性動詞かな」
と割と自信ありげに提案する。するとヒトエさんが、
「いや女性動詞だね」
と同じくらいのトーンで反論する。
「男も女も待つよなあ。そうだろ? なあナリさん。
これこそ中性ってやつにしておけばいいんじゃねぇか」
スミさんはいつもの調子だ。
その日の『狐』もだいたいそんな調子で幕を閉じた。
退店してからもずっと待つ、という動詞について考えさせられることになる。
おそらくはこういうことの総体を私は待っていて、それを得られることを何となく知っているからこそここに来ているのかもしれない、などと答えめいたものを見出したりもしていた。