小説『狐』のセルフライナーノーツあるいは創作を巡って
先月のことにはなりますが『狐』なる小説を書き終えました。上のマガジンにまとめています。
この記事ではこれについて語り散らします。想定読者は、
私自身
(もし万が一こちらの作品を読んでくれている方がいるのであれば)その方
セルフライナーノーツ的な、作者あとがき的な文章そのものを読むのが好きな方
ということになろうかと思います。
一素人がこんなかたちで語るなんて…… と卑屈にならないこともないのですが、やりたいのでやります。やらせてください。
だいたいどんな内容だったのか?
ナリさんなる至って平凡なサラリーマンが主人公で、彼が行きつけの『狐』なるバーに通う話です。
そこで色々な人に出会い、どうでもいいことを語っている様を主に観察する。まあおよそそんな感じの内容です。
作者にとってこの作品は何だったのか?
正直に申しますと、私にとってほぼ初めて完結を見た小説なのです。
二十歳前後あたりで何らかの小説を書こうとしましたが、書き上げることはできませんでした。それはきっと、色々な力が不足していたのと、あとは小説なるものの定義を狭くとらえていたからだと思います。
長く生きてきて自然に力が養われた、とは言い切れませんが(1979年製)、いい意味で思い切りが出てきたのだろうと省みています。
出来不出来は別として完結できたというのは凄く大きいのです(自分にとってね)。
note内の皆様は大変優れた書き手であり、皆さんが書いているのをリアルタイムで体感できるからこそ、自分も書き進められたのだな、という思いがあります。スキというカタチで反響をもらえるのも尊いです。いつもありがとうございます。
結局何がしたかったのか?
あの作品『狐』で何がしたかったのか?
なるべく、ファンタジー要素のない、至って普通の話をやってみたかったのです。ミステリーでもないし、恋愛があるわけでもない。かと言って日常とも違うもの。
その中で思いついたのは『狐』という閉鎖空間です。バーです。彼らには日常がありますが、この場は日常とは切り離されています。そういう人達を書くことはまあまあ面白いかもしれないという予感がありました。予感が。
尚、私自身、そんなにお酒に強いわけではなく、バーになど通ったことはありません。そんな状態で想像と雰囲気で書いていました。リアルな体験がもっとあると、それに比例してよりリアルな描写が、できたのかもしれませんが、バーを具に描きたかったわけではないというのもあります。あくまで人間を描きたかったわけです。
小説における結末とは?
これはなかなか議論の深まりそうな事案ですね。作者の数だけ、いや、読者の数だけ理想とする結末がありそうです。
描きすぎてもいけないし、描かなさすぎてもいけない、という議論のフェーズ。
与えられた要素(伏線)は全て回収されるべきだとする考え方、いや、謎を残した終わり方こそ至上だとする論調。
この作品では、そもそも謎らしい謎はそんなになかったと思っています。
それに加えていつ終えてもよかったし、どこまでも続けようとすれば続けられたとも捉えています。
作者が「終えよう」と思ったから終えた、みたいなところはかなりあります。更に言えば作者が飽き出したというのもちょっと(いやかなり)あります。
ということで、ジブラルタル峻はまだ創作意欲があるので、色々とやっていこうと考えています。
小説と詩・散文と
また、いわゆるな小説と並行して、散文的な詩、詩的な散文としての一連の創作(名称検討中)もやり続けています。
こちらは少し思考が違うんですよね。読むのも疲れると思います。ええ、疲れてもらうために書いてる面があるかも(意地が悪い)。
でもたまにはこういうの読みたいと思いませんか?