スタンス
「『絶対に』聴いてください」「『絶対に』買ってください」「『絶対に』来てください」。言えた試しがほとんど無い。
言っても「良かったら」、「是非」、せいぜいこの辺りといったところだろうか。
もう何でこんなにこだわっているのか分からないけどとにかく自分だけの、自分ならではの鋳型を用いて作る記名性のあるポップスというものにずっと憧れていてそれを作ってみたいという、そういう大義めいたものから時には単純にもう歌いたい、気持ち良くありたい、様々な面から自分のツボを突いていたいという快楽丸出しなものまで、あらゆる自己満足が音楽を作る際の優先順位のトップに常々座している。その自己満足こそが音楽を作る最大の動機で、そして聴いてくれている人にはその自己満足に付き合ってもらっている、付き合わせているという自負が絶えずあった、それ故に絶対という枕詞を使えずにここまで来た。認めたくはないけどセールスマンとしてはまあ余裕で失格である。
自己満足一筋でずっと曲を作って来た中でコロナ渦に入り大量の気持ちと時間とが巡った結果、聴いてくれる人に寄り添えるもの、フィットするものを作りたいという新たな動機が現れて、そしてそこへ目掛けて作るようになってから出来あがった曲たちはそれまでの曲たちと質というか顔立ちが明らかに変わった気がする。
だけどそうやって出来ていった曲たちも聴いてくれる人だけの事を何より優先して作っていった、という訳では今思えば正直なかった。寄り添いたいというその確かな動機と、その隣に同率一位という形で、いやもしかしたらほんの少し上回っている形でやはり先述の自己満足とがあった。
君にあげたいという自己満足、君が喜ぶものを考えるという行為、その二つの間に「2020の窓辺から」も「ERAM」もある。
その二作を聴いていると我ながら優しさも感じるけど、同時に何らかの爪痕も強く感じる。
動機がいくら増えようとそこから自己満足が外れる事はないという確信が異常なまでにある、絶対という言葉もそれ故にこの先使える目処は現状全く立っていないけれど、仮に使える日が来たとて外れないという事には変わりはないとも感じている。いつまでも自己満足から音楽を始める事、例えば売り物としてそれは良いのだろうかとか、今まで自分なりに密かに沢山考えたし悩んで来たけど、その都度やっぱりそれで全然良いと思ってしまう。
ゴーストライクを始めてからずっとそうではあるけれど、特にコロナ渦に入ってマイペースな活動になってしまってからは、聴いてくれている人に絶妙な距離感で見守ってもらっているなと感じる機会が沢山ある。そこに対して感謝の気持ちは尽きないし、本当に有難くて心地が良い、だからこそそこに嘘が混じるのが嫌だから曲を出すその度に気に入ってくれたら引き続き付き合ってもらえたら、お気に召さなかったら難色を示すなり静かに離れたりしてもらえたら嬉しいという気持ちもリリースを重ねるたびに強くなっている。
聴いてくれる人に寄り添いたい、フィットしたい、それすら自己満足なんじゃないのかと思う時もあるし、その何だかんだ変わらなかった、変えられなかったスタンスで、いつ好きになってもらっても離れてもらっても見に戻って来られても良いようにこれからもベストを尽くせたら、そしてそうやってこの素敵で優しい距離感、その関係性を守れたらと思う。
という事で良かったらこれからもよろしくお願いします。
来週お知らせがあります。