見出し画像

ワイヤレス時代の恋人たち

ワイヤレスイヤホンを買った。

ワイヤレスイヤホンというものが世に出始めてから、随分と時間が経った。しかし私は、長い間有線イヤホンを使い続けていた。割と前から使っていた、音がお気に入りの有線イヤホンがあったのも理由の一つだし、フィジカルなものの方が基本的に好きということもある。ワイヤレスは音質が劣るものだという印象もあった。

ただ、私は基本うっかりもので不注意だ。そんな私は有線イヤホンを使いながら、そのコードを自他問わぬカバンのチャック、ガードレール、家のドアノブ、あのこのスカートの中など、いろんなところにひっかけまくってきた。

そんな生活に飽き飽きしたのに加え、主にはiPhoneのイヤホンジャックが存在しなくなったため(イヤホンジャックがなくなってからもずいぶん経つのだが)、いいかげんワイヤレスにするかと思っていたのだ。そしてこの度、なけなしの賞与が口座に振り込まれたことをきっかけに、その2時間後ぐらいにはすでにamazonに配達を依頼していた。

買ってみた結果、めちゃくちゃ便利だ。しかも音もいい。

いや、厳密に言えば、音はよくよく聴き比べれば同価格帯の有線イヤホンよりごく僅かに劣るのかもしれない。だが、そんなもの素人の私にとってはほぼ無関係だ。それよりも、これまでコードをひっかけ続けてきた私の人生はなんだったのかと思うほどの取り回しのよさだ。私はまるで、自分が鳥籠から解き放たれたいたいけな小鳥のように感じた(28歳・男性)。

そして、これまでワイヤレスイヤホンを忌避してきた自らを思い、激しい悔恨の念に苛まれた。その罪滅ぼしのために、自分が死んだら戒名は「ワイヤレス院イヤホン居士」にしてほしいという旨を遺書にしたためたのだった。

まぁとにかく、ワイヤレスイヤホンは大変便利だなぁと思ったという話だ。しかしそれに加えて、一つ心配に思うことがあった。それは恋人たちのことだ。

恋人たちは、今でもイヤホンを分け合っているのだろうか。

かつて有線イヤホンだった時代は、恋人たちはイヤホンを分け合って音楽を聴くという、ステレオ録音に対する冒涜的な行為を働くことで、愛する者と身を寄せ合って音楽を聴くことができた。というか、音楽を聴くという名目の元に、堂々と恋人とベタベタすることができた。愛する人と寄り添いながらロマンティックな音楽を聴く、その多幸感は如何ばかりだっただろうか。「彼とイヤホンを分け合って聴きたい曲はこちら!」とか、音楽をバカにするにも程がある特集が、ティーン向け雑誌では堂々と組まれていたに違いない。それを思うと、録音した音源を左チャンネルと右チャンネルでどう振り分けるか、必死に考え抜いてバランスを調整したレコーディングエンジニアの苦労が偲ばれるばかりだ。言っておくが決して妬んでいるわけではない。

ただ、ワイヤレス時代、そんなふうにイヤホンを分け合ったところで、寄り添う口実にはならない。そもそもワイヤレスイヤホンというのは、イヤホンと携帯電話との距離の制限が比較的自由になることが利点なのであって、むしろ二人が離れるほうが本来の用途にあっているとすら言える。同じ電車に乗っても、わざとドアひとつ分離れたって大丈夫だろう。道路を挟んで歩いたっていい。その上、耳からは、片方のチャンネルだけの音楽が鳴り響くのだ。あぁ、反対車線にいる彼女の右耳にあるイヤホンではきっとギターがこんなメロディを奏でているんだろうなとか、隣の車両の彼の左耳では今頃ウォーキングベースが軽快に鳴り響いているのかしらとか、そんなことを思う日々が、今の若者たちの青春の一ページには刻まれているに違いない。
ざまぁみろだ。違う、大変素敵なことだ。音楽の素養も高まりそうだし。

また、気になる相手に対して勇気を出してイヤホンを分け合おうと提案した若者が、それを相手に了承してもらったとしよう。分け合ったはいいが距離を詰める口実がないことに気づき、寄り添うことなく音楽を聴いたとき、一体どう感じるのだろうか。例えば電車で一人分の座席を空けて座りながら、気になる人と同じ曲を聴いたとしても、本来詰められるはずだったその距離は無限にも思えるのではないだろうか。あぁこれが有線イヤホン時代だったなら、今頃あの子と肩を触れ合わせながらAwesome city clubを聴いていたんじゃないかとか、思ってしまうのだろう。切ない。大変切ないぞワイヤレスイヤホン時代。

私は恋人たちの前途を祈りつつ、Nirvanaを聴いた。相変わらず破滅的だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?