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亡き人を想う

最愛のばあちゃんを想い、これからも大切な事を忘れないように書き連ねる。

ねぇ、ばあちゃん。
産まれた昭和6年3月から、令和6年1月まで、生きた92年と10ヶ月。本当にお疲れ様でした。あなたの孫として過ごせた37年、たくさんの愛をありがとう。

共働きだった両親に代わり、俺の人生はほとんどばあちゃんに育ててもらったような気がする。
ばあちゃん孝行はあんまり出来なかったけれど、貰った恩は一生かけても返せない程だけど、たくさん苦労して頑張ってきたばあちゃんが、これからは天国でゆっくり休んでくれるといいな。

いつか来ると分かっていた別れは想像以上に早くて辛い事だった。もっとああしていれば、こうしていればと、後悔している事もある。
ばあちゃんは本当にみんなのばあちゃんだった。自分を犠牲にしても孫ファースト、曾孫ファーストだった。毎日スーパーのチラシをチェックする倹約家で、特売品があれば多少遠くても自転車でピューンと行ってしまう。我が身を粉にするスタイルで、ばあちゃんが贅沢してるところは見た事がない。
旅行のお土産よりも、俺たちが楽しい時間を過ごして無事帰った事を喜んでくれた。花が好きで、敬老の日にお花を送ると、そんなんええのに!と言いながらも受け取ってくれた。いつも笑顔で優しかった。たくさん気遣ってくれた。

幼少期からばあちゃんちが俺にとってのホームで、親が迎えに来るまでばあちゃんちでご飯食べて待ってた。ヤンボーマーボー天気予報が流れる頃に両親どちらかが迎えに来てくれていた覚えがある。
週末は、ばあちゃんちに泊まらせてもらってたな。その時のテレビと言えば、筋肉番付、めちゃイケ、土9のドラマから夜もヒッパレまでが定番の流れだった。中高時代は体操競技に打ち込んでいる報告を聞いて、怪我のないように頑張れと応援してくれた。大人になって大学生の後半から一人暮らしを始めたけど、社会人2年目くらいから、ばあちゃんちの2階に間借りをして何年か一緒に住ませてもらっていたね。遅く帰っても、冷蔵庫にばあちゃんのご飯が入ってるのを見つけると、有難いなと思って食べてから寝てた。結婚して1度引っ越しをしたけど、長女が産まれたタイミングでばあちゃんちの2階に再度間借りする事になった。曾孫、喜んでくれていたし、めちゃくちゃ可愛がってくれていたよね。ありがとう。

地主さんが空き家訪問していたのをたまたまばあちゃんが見つけて声をかけてくれたおかげで、土地を売って頂ける事になり2軒隣にマイホームを建てることができた。変わらず近くに居られて嬉しかったし、家庭菜園の水やりや花の手入れもしてくれたり、特売品やお菓子を買ってきてくれたり、ゴミ出しのネットを片付けてくれていたり、娘が小学生になってからは毎朝見送りに出てきてくれたね。ばあちゃんから貰ったものが多過ぎて、尊い思い出ばかりで感謝が溢れている。

たくさんお話してくれたばあちゃん。お墓で火の玉を見て怖かった話、おじさんに小さい頃、お手てみたいなバナナが食べたいと言われたけれど当時高価であったバナナは1本しか買えなかった話、戦争の話。ばあちゃんが生きた時代はきっと壮大で、その人生の後半に一緒に過ごせた日々は本当に幸せで尊い毎日だったと今だから思う。

昔は畑もやってたね。家の前が畑だった頃はそこで野菜作りをしてた。そこが駐車場になってからも、大きな坂2つ先の畑を借りて野菜作りをやってたね。道の植木が寂しかったり、花が枯れていると、勝手に花を植えて育ててたりもしていた。何かにつけてお世話が好きな人だった。

お裁縫が得意で、昔は色んな服や帽子を作ってくれた。祭りの甚平や給食袋もばあちゃんのお手製だった。俺がスイミングスクールに勤めていた頃に毎年6月ひらかれていた感謝祭では、フリーマーケットにも参加して自分の作品を売っていた。昔からお手製ばかり使っていた俺は流行りや好みに合わない柄を見てかっこ悪いなぁと思ってたりもしたけど、ばあちゃんのハンドメイド作品はとても好評だった。作った品の全部が売り切れて嬉しそうだったね。

料理も上手でアップルパイやシュークリームも毎年作ってくれた。カレーも焼きそばも濃いめの味で、俺はそれが大好きだった。ばあちゃんが作った中では、アジ南蛮が1番好きだった。世界一好きだったばあちゃんの料理がもう食べられなくなるかと思うと寂しいけれど、いつかその味を再現出来るようになりたいな、とも思ったりもする。

夏休みは毎日ばあちゃんちで過ごしてたな。夏休みスペシャルの名探偵コナンや、はじめ人間ゴンとか、むぎ茶片手にテレビを観てたな。先っぽに練乳の入った宇治金時アイスバーが好きでよく買ってきてくれた。宿題終わるまで遊びに行かせて貰えず、半泣きで宿題もやったっけな。終わるとスナック菓子を出してくれた。終業式の日は定番かのように、孫を連れてスシローの回転寿司に連れて行ってくれた。アオキスーパーの横のスシロー、大きな坂を2つ越えないと行けないんだけど、今思うと結構遠い道のりだったな。毎日のように自転車でアオキスーパー行ってたばあちゃんからしたら屁でもない距離だったか。ほんと元気で何処へでも自転車で行ってしまう人だった。夏の暑い日にも一緒に笠寺の六の市に行ったのをよく覚えてる。洋裁用の生地や小物、漬物がたくさん並べられていたな。ポン菓子をいつも買ってくれた。懐かしい味、もうずっと食べてない。

相撲も大好きだった。夕方は再放送ドラマや、はぐれ警部純情派をみて、大相撲が始まると張り切って応援しては一喜一憂していた。じいちゃんが生きてた頃から毎日応援してたよね。四国で生まれ、仕事をしに大阪でじいちゃんと出会い結婚して、そこから名古屋に移ってきてからもばあちゃんは阪神ファンだった。関西弁が変にからんだり阪神ファンになったのもばあちゃんの影響だった。阪神が優勝したら一緒に優勝セール行こうねって言ってたけど、阪神はなかなか優勝しなくて、去年やっと優勝した時はとても嬉しそうにしてた。でも優勝セールは行けなかったな。体調の理由もあったけど、約束は守ってあげられなかった。でも最期に日本一のタイガースが見れて良かったよね。

2023年は緑内障の手術をしたり、大腸ポリープを切除したりと治療が重なり、ばあちゃんの身体は少し弱っていってた。口がずっと苦いと言ったり、食べても食べても体重が減る事があり、心配で検査受診しても異常が見つからない健康体と言われて帰されてしまった。付き添いはいいよと自分で救急車に乗り入院準備も用意して、入院する気満々だったけど、入院にはならず病院まで迎えに行くと、絶対どこかおかしいのになぁ、と困った様子だった。

耳も遠くなっていき、近くで大きい声で話さないと聞こえない事も増えた。耳につける集音器を買って持って行ったけど、こんなもんに大事なお金使わんでいいのに、と言われてしまった。大事に持っててくれてたけど使っていたのは1度しか見てない。活動量が減っても玄関から娘の見送りをしてくれたり、元旦にはお赤飯を炊いてくれた。炊きてての温かい赤飯を実家に帰るとき持って行ったけど、他の料理がたくさんあって食卓には出なかった。思えばあれがばあちゃんが最後に作ってくれた料理だったから、食っておけば良かったな。

俺が高校1年生の時にじいちゃんが死んで、おじさんと2人暮らしになり、酒飲みで職場でも色々問題を起こすおじさんにはだいぶ心労していただろうと思う。身体も悪くて酒とタバコを辞めるように約束しても、外で酒を買って飲んでは酔って倒れて救急車で運ばれたりするおじさんは、ばあちゃんにとっていつも1番の心配の種だった。そのおじさんが亡くなった3年前からばあちゃんは一人暮らしになったけど、あのおじさんは1人では生きられなかったと思うから、おじさんより長生きできた事においては、ばあちゃんは安心していたように思う。でも一人暮らしになった事で、人と話す機会は少し減り、自分がボケないようにと努力する姿が見られるようになった。ボケない何ヶ条みたいなのを部屋に貼ったり、チラシの裏に漢字をいくつも書き溜めたり。自分が死んだ後の事も考えて準備をしてくれていた。ばあちゃんが死んだらおじいちゃんのお墓の管理は任せるから頼むねとか、自分の葬儀はあそこに登録してあるとか、葬式の資金は幾ら残してあるとか、娘(俺にとっての叔母さん)の家のローンや、ばあちゃん家を叔母さんが引き継いでアパートに建て替える時に、お金で相談されたら助けてやってくれるか、とか。ばあちゃんが死んだ後の話なんて全然聞きたくなかったけど、ばあちゃんなりにちゃんと考えて話そうとしてくれていたので、自分も向き合って聞いた。先が長くない事は自分でわかって居たのかも知れないけど、100歳まで生きる気でもいたから、7年早く人生を終えてしまった事には惜しむ気持ちもあったんじゃないかな。


過ぎた日々は戻らないけれど、ばあちゃんに育ててもらった時間は、これからもずっと心の中で流れ続けていくし、ばあちゃんはこれからも心の中にいる。

心不全がわかった23年11月末。
甲状腺機能低下症と尿路感染症の併発が分かった翌年1月15日。これからの治療の道筋をお医者様が話してくださった、その翌日に別れが来るだなんて想像もしなかった。
1月15日朝、倒れて手足が冷たくなり、その夕方一緒に乗った救急車。なかなか病院が決まらず7軒目で受け入れを決めてくれた掖済会病院。
命の炎が消えかかりながらも必死に生きようとするばあちゃんを隣で見続けるのは、心が痛い時間だった。現実を受け止めきれず、すごく長い時間に感じた。
痛みに耐えながらも俺の手を強く握ってくれた。必死に言葉を絞り出して話そうと、意志を伝えようとしてくれていた。
自分の名前も言えるし、今日が月曜日だって事もわかってた。夕方に近所のクリニックの予約をした、と言ってたけどそれがその日なのか、1週前なのか、わからなかった。左膝の裏が痛痒いからさすってくれ、膝を立ててくれ、叩いてくれと訴えていた。さすると少し穏やかな表情も見せてくれた気もした。
血圧がすごく低いのを伝えると、塩を持ってきて欲しい、砂糖と塩、テレビの下にあるから、と言っていたけど、ここは病院だから取れないよ、と伝えると残念そうな顔もしていた。

起きれない、おしっこしたい、と教えてくれたけど、管がついてるからそのままして大丈夫だよと伝えると、そうか…、と寂しい顔もした。うんちもしたいと言ったけど、行けないよ、オムツでそのまましたらいいよと伝えると、驚いたような表情もした。
必死に話そうとする声も、だんだんと水分を失っていき、少し話しづらそうになっていった。無理して話さなくていいよ、と伝えたけど、本当はばあちゃんの声をもっと聞いていたかった。

体温が33.0度しかなかった身体は3時間半かけて35.4度まで戻った。けれど血圧は77/50あたりからなかなか上がらず、血管を収縮させる薬を使っていた。薬を使ってもその日は血圧が戻らなかった。

入院が決まった事で少しホッとしたのは確か。何でも自分でやりたがるばあちゃんだったし、元気が自慢だった。人に頼るのを極端に嫌うから入院しなきゃいけないギリギリまで自分でやろうとしてしまう。去年まで自転車にも乗っていたし、1か月前まで毎朝ラジオ体操に出かけていた。でも人に頼るのが嫌いな頑固さのおかげで、身体を悪くした後も無理をしていたんじゃないかと今更ながら思った。

翌1月16日朝、お母さんが入院治療相談室を利用して、その後病室に付き添ってくれる事で、俺は仕事に向かう事ができた。その午後くらいから少しずつ体調が悪化したとの連絡があり、娘たちも会いに行けるよう家族LINEで伝えた。俺は20時過ぎまで経営検討会議があり仕事終わりまっすぐ駆けつけた。
到着した20:45、病室にはお母さんだけが居た。後から聞いたけど、夕方以降は病室に居られる人数が制限されて、他の親族は帰されてしまったらしい。
涙目でこっちを見つめ一生懸命口を動かそうとするばあちゃんがいた。言葉は聞こえなかったけど、よく来てくれたね、と名前を呼んでくれている気がした。

その後、1時間足らずで心拍が止まった。画面の心拍表示が0になり、ばあちゃんを呼ぶと、少し心拍が戻った。2度か3度か、それを繰り返した後、数字は0から動かなくなった。昨日冷たかった身体は37度まで体温を取り戻していて、心臓が止まった後も温かかった。

もう一度ばあちゃんを呼んだ。涙をこらえても止められなかった。仕事が終わって、俺が到着するまで頑張ってくれてありがとう、待っててくれたんだね。それまで闘って、耐えてくれたんだね。昨日は痛みに耐えながら動いていたばあちゃんは、痛がる様子もなく動かなくなっていた。口に着けられた酸素マスクで喉が動き、まだ生きているんじゃないかと錯覚すると同時に、期待もしてしまいそうだった。

命の火が消えた瞬間に立ち合う事が出来たのは、最期にばあちゃんが俺に教えてくれた何かだったんだろう。元気で柔らかな笑顔だったばあちゃんは、痩せ細ってすごく小さく見えた。

救急外来の対応を終えた当直のお医者様が最期の診察に来てくれた。胸の心拍、腕の脈拍、眼球の反射、全て無いことを確認し、22:19ご臨終です、お疲れ様でした、と深々と頭を下げた。隣の看護師さんも一緒にお辞儀をされた。

お母さんは横で、心配ばかりかけて全然親孝行出来なかった、と泣いていた。俺は心の中で、こちらがどれだけ安心させようとしても、心配性のばあちゃんはどこまでいっても心配するんだろうな、と思った。
心配かけてもいいよね、それが子どもであり、孫であり、曾孫だよね。たくさん甘えさせてくれたよね。
でももう心配しなくていいからね。兄妹やじいちゃんと、おじさんと、天国でゆっくり穏やかに過ごしていてよね。いつか俺たちがそっちに行く日まで、天国からいつもの優しい笑顔で見守っていてね。
寂しくなるけど、いつも心の中でばあちゃんと一緒にこれからの人生を歩んでいくね。
これまでも、これからも、ずっと大好きだよ、ばあちゃん。本当に今日までありがとう、ごめんね。

記憶の奥底にあったばあちゃんとの思い出が、少しずつ浮かび上がる中で、昨日はたくさん話してくれたな、最期に1番ばあちゃんとしゃべれたのは俺だったな、なんて考えていた。3日前は歩いて普通に会話もして、1週間前は1人で風呂も入って、1か月前は敬老パスでバスに乗って病院も行ってたし、毎朝続けてたラジオ体操にも、自分で引退の挨拶に行っていた。半年前に乗らなくなってた自転車も、1年前は元気に乗ってた。そこから今日までがとても速い時間に感じて、人の人生が終わる時のスピードってこんなにも一瞬で進んでしまうものなんだと思い知らされた。

涙が流れるのを耐えようとするけどなかなか難しい。それくらいに俺の中で大きな存在だった。ばあちゃんが居ないこれからの日々は、ぽっかり空いた心の穴に落ちないよう気をつけて歩いてかないといけない。家族のためにもしっかり生きていかなきゃとは思ってるけど、現実と受け止めるのにもう少し時間が要りそうだ。

それだけ皆に愛されるばあちゃんみたいに、命が終わる時にたくさんの涙で見送られるばあちゃんみたいに、自分の人生も愛に溢れた未来を歩んで行けるよう頑張って生きていく。
ばあちゃんに笑顔で報告できるように、楽しい思い出をたくさん作り、豊かな経験をたくさん踏んで、幸せな人生を歩んでいく。だからまた会おうね、ばあちゃん。約束だよ。

今までたくさん可愛がってくれて、本当にありがとう。

(2024/01/18 01:12:54)


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