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江戸和竿の経験 シーズン2 その15

8月、耐え難いほど蒸し暑い。私のお気に入りの川に湧き水があるポイントがあるがそこは多少は涼しいのではないかと期待しヤマベ狙いに浮き釣りをする。
竿辰の古い小物竿で何匹か良いサイズのカワムツを釣ったあと、バット浮きが沈んで穂先が曲がったあとですっと軽くなり竿がまっすぐになる。オレンジ色のウキはジグザグに移動し、やがて私はゆくえを見失ってしまった。穂先の蛇口が経時的に劣化して切れてしまったのだ。古い竿なのでまあしょうがない。ところどころほころびが出てくるのは受け入れなければならない。
 
福岡伸一という人がいる。生物学者だが「動的平衡」の一連のシリーズがあり、彼の生命の定義に対する考えやアイデアを伺い知ることができる。生命論議ばかりだと苦しくなるかもしれないが、アメリカ留学時代での苦労、趣味の話、人生観など寄り道をして読者を飽きさせない。アカデミックな香りの強いエッセー集という体裁である。新書なので出張の際にバッグに入れて移動中に読んでいる。動的平衡シリーズは私が把握している限りでは4冊出ている。いまは4作目、「西田哲学」を動的平衡理論を通して理解しようと試みる「福岡伸一、西田哲学を読む 生命をめぐる思索の旅(池田善昭 福岡伸一 小学館新書 2020)」に取り組んでいる。ほかの新書もいくつか読んだが4作目は私には特に難解なようである。「時間」の誕生、伝統的な過去から現在、未来へと一方向に流れる時間の考え方とは違う発想についての議論には完全に取り残されている感じはする。西田幾多郎については学生時代、いまからおおよそ30年前に「善の研究(西田幾多郎 弘道館1911)」にチャレンジしたことがあった。いわゆる受験科目としての国語には自信があったが、まったく歯が立たず、極めて表層的に通読して本棚に戻したことを憶えている。何かの分野を少しでも理解しようと思ったら、関連文献の存在も意識しなければならない。
少し脱線したが福岡の動的平衡の発想とは、あらゆる生命はエンテロピーの影響から逃れることはできない。そのままだとただ滅びていくのを待つのみである。生命は自身というシステムを生きながらえさせるために、エンテロピーの流れに先んじて自身を壊して、同時に再生産するという方法を採用した。壊れる前に自ら壊して更新していくという仕組みがあるので生物は生きつづけることができる、3冊の新書を読んだ後の私は上記にように理解している。
「合成と分解との動的な平衡状態が「生きている」ということであり、生命とはそのバランスの上に成り立つ「効果」であるからだ。合成と分解との平衡状態を保つことによってのみ、生命は環境に適応するよう自分自身の状態を調節することができる。これはまさに「生きている」ということと同義語である。サスティナブル(持続可能性)とは、常に動的な状態のことである。一見、堅牢強固に見える巨石文化は長い風雨にさらされてやがて廃墟と化すが、リノベーション(改築改修)を繰り返しうる柔軟な建築物は永続的な都市を造る。(「新版 動的平衡 生命はなぜそこに宿るか」 福岡伸一 小学館新書2017)」
逆説的だが壊れる仕組みがあることによってシステムとして壊れないのだ。壊れることは必ずしも悪い事ではない。むしろ壊れたり脆弱性が現れたりすることには良い側面もあるのではないか。
師匠が仕事を続けることができなくなる前に弟子の実力が台頭してくるということが望ましい。徒弟制度(住み込みの弟子を師匠が育てる)は江戸和竿については崩れている。でも趣味的にあるいは本業を別に持ちながら和竿を作り始めている人は増えているのではないか。楽観的過ぎるかもしれないがある程度プロではないアマチュア的な人たちが存在することによって、その土壌からプロ的な人も出てくるのではないか。
 
私が所有する名人といわれる竿師の和竿は私がもう釣りはできない年齢になったらそんなアマチュア竿師に譲りたい。彼らは大いにそれら名人による和竿にインスパイアされるはずだ。私はコレクターではないから譲りたい竿もピカピカの新品ではないが。
 
穂先の形態は輪になっているもの、太い紐の先を結んだもの、素材にもいくつかバリエーションがある。私は自分で修理するほど器用でもないので竿師のところに持ち込もうと思う。
 

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