江戸和竿の経験 シーズン2 その13
ウェブの世界における買い物でも「掘り出しもの」を探索する面白さを味わえることがある。私が注目するのは専門的な知識がない店主が経営する骨董屋さんによる出品である。昭和のアイドルのポスターから仏像みたいなものまで脈絡もなく扱うようなお店である。なるべく掲示されている写真は「汚い」「わかりにくい」ものが良い。汚いとはヨゴレなのか、傷がついているのかゴカイの汁の付着なのか判別できない「あやふやな」ものがより望ましい。また売主が機能的に大丈夫な竿かどうか「わからない」「品質保証できない」と宣言しているものであれば完璧である。
それでその竿を購入する上でのリスクを負う覚悟がない、例えば商売あるいは転売目的の人は入札を控えるだろう。その竿辰の竿もそんな竿であった。穂先がついているのかどうか写真からはわからない、全体的に汚い印象を受ける。〇〇用という「竿の用途」を誤って記述している。こういう場合のコツは思いきること、あとは前のオーナー(釣師)を「信用する」ことである。竿辰の竿を大切に扱っていたはずだと想定するのだ。
状態のよい江戸和竿のコレクションは日本のどこかにある。それらはオープンなネットの世界には出てこない。コレクター本人はその価値を理解していたはずだが、たとえばその本人が他界した場合、家族あるいは親戚にとってコレクションは「竹の棒」の束の在庫の山と化している可能性がある。「名人」といわれる竿師によるものでも、例えば東吉、汀石などの鮎竿の流通は難しいかもしれない。そう考える理由はサイズである。太くて長すぎる感は否めない。売主が希望する価格帯で売ることは簡単ではないだろう。
ある親切な人から「処分に困ったコレクターのご家族からコレクションを譲り受けました。竿忠など名人による和竿もたくさんあります。未使用です」「こういうものが欲しいといってくれれば、見せてあげるから教えてほしい」といわれた。私の江戸和竿に対する関心の高さからこっそり声を掛けてくださったのは大変ありがたいと思った。竿忠や汀石の小物竿など見てみたいし、使って釣りをしてみたい。しかし私の自宅の和竿保管スペースもかなり余裕がなくなっている。修理をお願いしている竿辰や竿庄が戻ってきたら、また場所を何とかしないといけない。そんな状態であるから、まあ懐の温度の暖かみというもっと大きな根本的な問題があるものの、まだその御仁に連絡はできていない。
スペース確保の必要もあり、今所有している江戸和竿の棚卸しをしてみることにした。手放すクライテリアがあるとすれば「今後使うことがありそうかどうか」である。竿忠と竿庄のヘラブナ竿を竿袋から取り出して、眺める。ヘラブナとはそもそも江戸っぽくない。いまのところヘラブナ釣りを試みる予定はない。ヘラブナとは比較的近年、関西から来たものである。結構強い竿なので、太いマブナのウキ釣りにも全然対応できる。悩んだ末、竿忠を残し、竿庄の方を手放すと決めた。しかし、改めて竿庄を手元にしばらくおいていじっていると身の詰まった竹のずっしりとくる重さや、ぬくもり、細部にこだわった丁寧な作り、塗りの美しさ、竿師の独特な美的センス、意匠のバランスの良さに感服し考えを改め、元の場所に戻してしまった。
私が所有する竿辰、汀石、東吉は意匠的な要素、必要以上には装飾的な塗りに拘っていない。竿師がそのような見た目でのデザインを重視していなかったことは明らかである。あるいは常連客がそれを望まなかったともいえるだろう。しかし、その竿庄のヘラブナ竿からは竿師の意匠に対する芸術的なこだわりを改めて強く感じたのだ。
落札できたその竿は数日後新聞紙でグルグル巻きになって送られてきた。二代目竿辰による小鮒竿であった。濡れタオルで丁寧にぬぐってみるとピカピカの漆の肌が出てきた。傷は見当たらない。
押上にて「お父さんの小鮒竿を入手しましたよ」と報告する。
「そうですか、オヤジの竿であれば穂先もシャキッとしているでしょう。人にはお辞儀してもいいが、簡単にお辞儀するような竿は作ってはいけないとよくオヤジには云われましたから」