江戸和竿の経験 シーズン2 その1
江戸和竿の経験シーズン1においては、ルアーとフライフィッシング熱が冷めてしまったのち、江戸和竿の工芸品としての魅力に気づき、江戸和竿への距離という観点で、私よりも手前にいる諸兄のガイド、道標になるように、構成を考えて記述した。「まったくわかっていない人が書いた紹介」と「詳し過ぎて、またはアドバンス過ぎて初心者に伝わらない解説」の間を埋めるものになるように努めた。私もどちらかというとまったくわかっていないグループに近いとは思うが入口近くにいる人たちを主たる対象としてこの文章を書いているのでご容赦いただきたい。
相棒との出会い
どんな気持ちで竿師のもとを訪ねるのか。対象魚を決めて、それ用の竿を探しに来ているとは限らない。何か買おうかなとぼんやりと決めていて、自分との相性を探るのだ。わかりやすくいうとビビッとくる竿がないかの探索である。汀石によると釣竿は釣師にとって「武士の魂とでもいうべき大切な遊び道具(島田一郎 汀石竿談義 1975年文治堂)」ということだが、私にとっては「ハリーポッターが魔法の杖を求めてダイアゴン横丁にいく」ような心境である。いざというときに助けてくれる相棒探しの旅とでもいおうか。根津にて、いくつかミャク釣り用のヤマベ竿を見せてもらう。手前の竿をいったん棚から取り出してから、これはと思う将来の相棒を見せてもらう。ミャク用の竿がほしいといったものの、あまり気にいったものがなく、ウキ用の竿を継がせてもらい、しっくりくるものがあった。焼印をみて、「これは先代のものですか」と聞くと、「この時代のものはオヤジと私が同じ焼印を使っていたから、わからない」との回答。しかし昨年購入した先代の手によるヤマベ竿にそっくりであった。ご自身と先代による竿は「銘がなくても見分けがつく」といわれるので、なぜ回答を曖昧にしたのかは謎である。協働で作成したのだろうか。いずれにしてもしばらく、何十年という期間、おそらく40年か50年、棚の奥にじっとしていたのだ。
竿富親方に「気に入りました」と伝える。ただその竿にはマジックペンで「特価」と書いてある、もともとそういう色か、ベージュに変色したのか定かではないが紙が貼ってあった。「おいくらですか。特価とありますが」私の質問の意図を察して、ニヤリとして「そうだね、○〇円でいいよ」「本当ですか、わかりました、お願いできますか」というやりとりがあった。もともと定価があったのか、あるいはディスカウントしてくれたのか、わからないが、私にとっては大きな問題ではない。私は親方の言い値で買うと決めていたのだ。マスプロダクションではないから、お店で確認して別店舗あるいはネットを介して似たモデルや同じモデルを注文するわけにもいかない。「1品もの」であるからである。竿により大きく独特な個性が期待できるために、それが大きな魅力となる。
しかしヤマベ竿は私を待っていたわけではなかった
竿富親方はヤマベを和竿で狙う釣人が絶滅危惧種になってしまったために、「小物竿として」使えるようにしたのではないか。「最近ヤマベはめっきり釣れなくなった」という。私は多摩川の付近に住んで20年弱くらいになる。親方のいう「よく釣れた時期」はヤマベ釣り大会みたいなものが盛んに開催されていたらしい。釣具メーカーは販売促進を目的として大会を開催していたというから驚きだ。釣りの大会だけでも驚きなのに、いまとなってはマイナーな魚である「ヤマベ」を対象とした大会とは二重の驚きである。しかし私は当時の多摩川や東京湾に流れ込む河川の状況は知らないので、相対的にどうだということは経験的にわからない。ヤマベが減った理由についてはぼんやりと当時はキャッチアンドリリースの概念が乏しく、激しく釣りまくったからだろうくらいに考えていたが、ネットで調べてみるとどうも学者による文献が発表されていると知り、講演動画などを視聴してショックを受けてしまった。運命を感じさせたハリーポッター的気分は雲散霧消した。
東京大学大学院の研究者山室真澄教授による発表(Neonicotinoids disrupt aquatic food webs and decrease fishery yields, Yamamuro et al. 2019)である。学者としての態度はとてもまともだという印象を受けた。それだけに衝撃が大きかった。山室先生の説が正しいとするとヤマベ竿は私に出会うために半世紀近く棚の奥に隠れていたのではなく、農薬の流入によりヤマベの食料となる川虫が減り、結果的にヤマベも減り、ヤマベ釣師も減り、ヤマベ用の竿も売れなくなった、竿富のヤマベ竿も売れ残ったということが時系列の出来事となる。
背美鯨
私が根津を訪れるもうひとつの目的は親方との会話、対話である。これは押上で下車するのも同じ理由である。怒られるかもしれないが、どうしてもいま鮒竿が欲しい、という気持ちで必ずしもお店にいくのではない。親方との交流が楽しく、彼らの貴重な時間に対して対価を払いたいとの思いから、自然「棚もの」を買い求めようという気持ちになるのだ。
根津のお店には竿師が撮影した魚の写真が置いてあった。クロダイは親方が作ったヘチ竿で釣られたものであるという。いまはこの手の竿は作っていないそうだが、一時期釣師からの要望が多くあり、よく作ったそうである。素材選びが大変で、なかなか「これは使える」という竹に巡り合うことはなかったという。「ヘチ釣りというものは、ごく最近のものですね?」ときくと、「そうだ」という。大型のクロダイは以前は身近に釣れる対象ではなかったという。いまや東京湾内の防波堤とか河口近くの岸壁で、ある程度水深のあるところには、大抵クロダイがいる。横浜も然りである。荒川や旧江戸川あたりでは、いまでも前打ちやルアーによってクロダイ釣りを楽しんでいる人がいる。
クロダイ用の竿は先が硬すぎてはだめで、しかも魚の強い引きを「胴で吸収する」ようなデザインである必要があるという。ヘチ竿はともかく、長尺の前打ち竿を和竿で作ると鮎と同じで、新素材カーボンと比べると「重すぎる」という話になるのではないか。
クロダイ用の竿の穂先に使用されることがあるセミクジラの髭について。お店にはとても長い板のようなセミクジラの髭があった。保護されており普通のルートでは入手することはできない。しかし、あるときとある海岸にセミクジラが発見されたという情報を入手したという。そこで竿辰親方と一緒に駆けつけたという。相当な投資だったという。(後日この話を竿辰親方にすると、セミクジラ入手の旅には竿治親方も同行していたという。セミクジラの旅は複数回あったのかもしれない)
判る人がみれば、またその人に手を加える技能があれば価値があるが、素人の目から見ると一見ただの黒い、くすんだ板か炭の塊にしか見えない。