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江戸和竿の経験 シーズン2 その14

ここ数週間夕方に急に曇天になり雷とともに大粒の雨が降ることが多い。東京にいて熱帯雨林のような気候である。日中は暑すぎて外に出る気も起きない。
私の自宅近くに大きな屋敷があり、その屋敷からランボルギーニのムルシエラゴが轟音とともに登場することがある。オーナーはムルシエラゴに何を求めるのか。おそらく彼にとってムルシエラゴは移動の手段ではない。ムルシエラゴのシートに座り、その空間にいること、エンジンをスタートし耳を澄まし、公道を走ることにより伝わってくる振動により何か心理的な影響があるのだ。それがどのような感じの高揚なのかはわからない。しかしそれこそが彼の主たる目的であるはずだ。上記仮説が正しいとすると、釣りに江戸和竿を用いたり、気に入ったカップでコーヒーを飲む行為と似たようなものである。ヤマベ、鮒、ハゼなどの対象魚は単純に「釣る」という目的を考えると数百円の釣道具で事足りる。私は複数人で釣りにいくことが好きではないから誰かに自慢するわけでもない。歌舞伎役者でもないから意匠や装飾に、第三者の視線に気を遣う必要はない。しかしハゼを釣るのであれば、竿辰、竿治の中通しで釣りたい。コーヒーも気に入ったカップで飲みたい。小さな魚を対象とする場合、「釣る」という観点だけであれば道具ははっきりいって何でも良い。副次的な機能、例えば竿の硬さ、竹の素材、あるいは鯨を使っているとか、こだわるといろいろと出てくる。頭のどこかでくだらないことに拘泥しているのかもしれないと思いつつ、しかしそのちょっとしたコダワリのために、数倍あるいは何十倍のコストを払ってもいいと考えてしまうのだ。「機能面」ではなく「あそび」の方面も深化させることは大切なことかもしれない。しかしそれが行き過ぎるとユーザーを満足させることができず、時間の経過とともに制作者も使用者もダメにするのではないか。
 
「親方ですか。今日は何時までお店は空いてますか、仕事が早く終わったら夕方お邪魔してもいいですか」電話に出た奥さんから親方に繋いでもらった。
「6時くらいまでは開けてます。遅くなるようでしたら電話ください」
2代目竿辰のハゼ竿と鮒竿の修理をお願いしていたのだ。またこれまで鮒やタナゴなどの淡水竿を購入していたところ海水竿、シロギス、カワハギ用の竿を見せてほしいとお願いしていたのだ。
実はシロギスもカワハギもどんな釣り方をするのかすらよくわからない。来年あたり海の近くに引越す可能性があり、その時に備えて遊べる竿がほしかったのだ。親方から「これがいいです」と勧められるものがあればそれを躊躇なく買おうと決めていた。
麻布方面から押上への道中、顧客などの電話対応などあり、竿辰本店には6時ギリギリに到着した。親方はマスタード色の竿袋を手に待っていた。シロギス竿を私のために2セット選んでくれていたのだ。似たような竿だったが値段が2倍くらい違う。素材が違うのだ。安い方は先端がソフトカーボン、高価な方は鯨を使っている。しかし竿を持たせてもらった感覚としては安価なシロギス竿が良いと感じ、またこの竿で釣りをしている自分を想像することができた。しかしもう少し親方のプレゼンテーションを聞いてみたい気もした。その竿が持つ独特の物語を聞きたいのだ。棚ものは多分兄弟竿があり、もともとその竿を誂えてほしいと最初にお願いした人がいたはずなのだ。それらの竿の弟たちなのだ。依頼主はどういう釣場や釣り方を想定したのか。
「他の竿も見せてください。今日は晩いから、また日を改めます」そう云って押上を後にした。

帰途、ムルシエラゴとすれ違った。

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