お花が枯れてしまう前に
先日、結婚式を挙げました。高砂席の前に飾られていた優しい色のお花たちは、今はまだ鮮やかに咲いてくれていますが、あと数日もすると萎れてしまうと思います。
記憶も同じで、お花が枯れてしまう頃には消えてしまうことでしょう。もう既に当日に味わった幸福感は消えてしまいつつありますが、余韻が残るうちに書いておきたいと思いました。
私たちは、神前結婚式を行いました。
中学生の頃に初めて見たレミオロメンの「3月9日」PV映像にとても惹きつけられ、大人になって結婚式をすることがあればこんな風に挙げたいと考えたことがきっかけです。
まさか、本当に叶えることができるなんて思ってもいませんでした。イメージしたことは現実になるのだと思います。良いことも、悪いことも。
当日はお天気にも恵まれ、親族や友人と共に花嫁行列で神殿へ向かう夢を叶えることができました。
歩きながら考えていたとことは、「平穏である」ということです。
眩しくも優しく照らしてくれる太陽が遠くにあること。青く広い空が見守ってくれていること。和やかな風に木々がそよぐ音を聞きながら、今私が立つ場所が穏やかであることや、その幸せを感じていました。
戦時中を生きた祖父母から、空を見上げるのが怖かった話を聞いたことがあります。空襲があれば、穏やかな気持ちで、美しい太陽の光を浴びたり、空を眺めたり、木々がそよぐ音を聞いたりすることもないと思います。
私はたまたま平和な地域と時代に生まれることになり、今日まで自然の美しさを存分に享受できるような恵まれた人生を送ることができました。
普段は「取引先のクレーマーの方が」とか、「日本の政治は」とか、自分の中でや小さな集合体の中で起きるゴタゴタしたものに意識を取られがちで、自分がいかに大きな枠組みや恵みの中で生きているか感じることはありません。
けれど、神社の正門から神殿に辿り着くまでの間は、美しい自然に見守られながら普段忘れてしまっている大らかな幸福を感じていました。
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結婚式は、三角形の積み木のようだと思いました。
私にとっては、「平穏な世界で生きた」いう四角の積み木を30年重ね、最後に三角の積み木を置く日でした。私は積み木で遊んでいた頃、三角の積み木をてっぺんに置くと、お城が完成したような気持ちになっていました。当日はそんな気分でした。
お城の作品を一度、区切りとして完成させる日。いつだって空を見上げることが怖く無かった記憶と喜びの上に、特別に平穏の三角の積み木を置く日。
これまでの30年間の人生で、覆されることなく崩れることのなかった平和な日常に、特別な日に積める三角の積み木を置くことができた感覚がありました。
日本が平和だからこそ迎えられた今日。
自分や自分が生きる小さな集合体の中で、できる限りの平穏を作り出そうともがいてきたからこそ迎えられた今日。
その証明として三角の積み木を重ね、一人で幸福に浸りました。もちろん、配偶者にもその感想を共有しました。私と生きることを決めてくれた人は、そんな私の不思議な話を聞いてくれる人です。
ちなみにお相手はこの時の彼です。
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この感想を書いてみたくなった理由は、もう一つあります。
インターネットといういう大海原に、美しいと思えた感情を流してみたいと思ったからです。
私は一時期、インターネットに流れる攻撃的な情報や、人を絶望に誘う情報に心がやられて、この世界の暗い部分しか見えなくなってしまったことがあります。なんてひどい世界で生きているんだ、これからの未来はどれほど絶望的なんだって。
それからは一旦インターネットと距離を置き、色々と考えていました。
ひとつ見つけた答えは、私が今生きる世界も国も、絶望ではないということです。
考える間、私は想像することができる最大限の闇の中にいる自分をイメージし、その後に現実に戻って、世界や自国を眺めてみるということをしてみました。もちろん、絶望に感じる面もあります。けれど、すべてがそうではありません。同様に、美しいもの、優しいもの、温かく素晴らしいものが沢山あるという当たり前のことに気づくことができました。
攻撃的な情報や、人を絶望に誘うような情報は、威力が強いです。だから、闇に包まれてしまいそうになります。だから、私は光を見つけたり、光を感じられるような言葉を放ったりすることができるような人になりたいと思いました。自分が辛かったから。
そんな決意も、ここに残してみたいと思いました。
闇に染まらないこと。
この世界で光を見つけ、光を放つこと。
次に完成させるお城の作品は、これらを続けたどこかのタイミングで、三角の積み木を重ねても良いと自分を認められた日に見られるような気がします。再び、結婚式で感じられた煌めく瞬間が自分の人生に訪れますように。
この文章が、少し前のわたしと同じように今、闇に苛まれている誰かに届きますように。