hommage
2月にフラれて、とてつもなく陳腐な言葉だけれど、死ぬほど辛かった。
が、陳腐な言葉が陳腐になるためにはたくさんの人が同じことを思い使い倒し共感を得なければならない、とも思う。だとしたら、死ぬほど辛かった、という感想は割と真理のはずだ。
そうだ。毎日が辛かった。立ち直れる気が1ミリもしなかった。一生好きなまま、けれど報われないままこの先を生きていかねばならないと思って震えるほど恐かった。
触れる空気すら痛くて堪らなかった。
1日が長かった。彼を想う気持ちが溢れては傷口をまた抉っていく。倦むような日々を過ごし、かさぶたにさえならない傷口を、いつになったら痛みが和らぐのかと祈るように思った。
依存だ執着だと自らを納得させるための言葉をかき集めて、終わるべくして終わったと強がったところで、熱が冷めるわけでもなかった。
七転八倒だ。八起なんて出来るはずもない。
結局、行き着く答えはいつだって大好きであった。
けれど、それでも、傷は癒えてしまうのだと思う。
そして多分、完全に痛みがなくなることもないのだと思う。
例えば雨の日に古傷が疼くように、折に触れて思い出す日々に傷口は痛むかもしれない。
それは、未だ恋だと錯覚するような痛みかもしれない。
仕方ない。だって、愛していたもの。
今でも私は後悔しているよ。
選ばなかった道も、選べなかった道も、もしかしたら誰も傷つかずに済んだ最良で最善の道をどこかで見過ごしたのかもしれないと今でも思う。
だから、後悔くらいさせてくれって思ってる。
なにもかもを悔やむくらいには好きだったと胸を張りたい。
後悔に胸を張る、なんておかしいかな?
きっと、大丈夫じゃないよ。
痛くて辛くて「え?地獄のがまだマシな気がする」とか冗談でも言わなきゃやっていられなかったり、それすら言えなくてひたすら口を閉じたり、誰にも会いたくないのに平気なフリをしなきゃいけないし、笑って会話が必要なことさえある。
日常は待ってくれないし、私を慮ってはくれなかった。
大丈夫なんかじゃなかった。
もう一度言うね。大丈夫じゃないよ。ぜんぜん絶望的だしお先真っ暗だし、立ち直れない。
ほんともうずっと痛いし泣きたいし、泣けない。
私は清々したとかも全然なかったから余計かな。
これを、どう受け止めるのか私には分からない。あるいは全く響かないかもしれない。
それでも良いかなとも思う。
据わりの悪いまま締めくくると、私は元気です。
どうか、あなたも。いつか。