今日は。
夏至が過ぎると少し寂しい。
日が短くなっていくことを憂うようになったのはいつからだっただろう。
そうは言っても、6時を充分に過ぎて尚差し込む西日に、ふと8月15日を思い出す。
寒川神社の境内に集まった人たちのざわめきも、あの邪気のない蝉時雨も、未だに耳に残っているような気がして思わず目を細めた。
読みかけの本を腹の上に伏せる。
今日は1日ずっとソワソワしている。
あの日、神事の後に薪に火が入った。
美しい、と言う文字が脳内に浮かぶ。
寒川の社の荘厳な造りも、傾いたとは言っても変わらず眩しい西日も、後シテの金蘭緞子の装束も、それらが炎の向こう側で蜃気楼みたいに揺らめくのを息を飲んで見つめた。
いつの間にか西日がすっかりと森に飲み込まれ、空は濃藍色へ変わり星がそこかしこに見え始めた。
薪の炎はいよいよ舞台を明るく照らし、シテの衣装はますます煌めいた。
美しいものが見たいと思って、そうして行った薪能だった。
腹の上の本に栞を挟む。
序破急。私の人生は今どのあたりなのだろう、と考える。
いつも行き当たりばったりだった。
運も無かった。
何かしらの非凡な才も、運命的な美しい邂逅も。
と、言うよりそれらを受け取るだけの器を持ち合わせていなかった。
とすれば、序はなく必然的に破もない。
あるとすれば、単に生き急いでいるだけの気がする。
自分の中に何も残らないと気付いたのは割と最近だった。
美しいものに出会って、その感動をどうにか伝えたいと思っても、取り出す時にはすでに跡形ない。
片っ端から忘れていく感動の余韻だけを、どうにか言葉にして残そうとしているこれは愚行に近い気もする。
本当も嘘も興味がなくなった。
残らないのなら、せめて美しくあれと願っている。目に映るあらゆるものが美しく、そうして等しく消えていけば良い。
感傷が過ぎるね。
これは、少しだけやけっぱちなだけ。
今日は。歳を取らない人の誕生日。
ケーキも蝋燭も、ご馳走もない日。
おめでとう、と言えない日。
強がりじゃなく、悲しいわけじゃない。
寂しいわけでもない。
繰り返される毎日の、名前の付く日であることは確かで、少しソワソワしてるけど。
どちらかと言うとね、そんなに悲しくも寂しくもないことが淋しいんだよ。