「普通の幸せ」ってなんだろう。
先日から、愛を問ったテーマのもと話をしていたけれど。「愛」というワードに正直飽きてきた。笑
私の愛の在り方に対して納得出来た瞬間、愛についてはどうでも良くなった。自分なりの答えがわかった。それだけで充分。
この過程を文字に残せたこと、そしてお読みいただいた方に感謝です。
ところで、愛と同じくらい付き物なのは「幸せ」な気がする。そして同じくらい付き物なのは「当たり前」や「普通」な気がする。
昨日から、ドラマ『恋せぬふたり』を見ていたけど、作中の言葉や主人公たちの思いはどれも共感ばかりだったな。
自分も多分アロマンティックなんだろうな。と思ったり。
個人的には、あの、すごくドラマがあるわけでもない、日常的な感じもなお良かった。
日常的なんだけど、私たちに疑問を投げかけてくるような、心にくるようなお話で総じて好きだったなというのが感想。
ドラマをきっかけとして、今日のテーマは「普通」「当たり前」「幸せ」。
「当たり前」「普通」いろんな場面で出てくるけど、私の中で心に残る言葉はの父の言葉が一番にくる。
できないことを補うのは「当たり前」
私、兄弟に障害があるのですが、小さな頃から靴を履かせたり、手をひいたり、そんなことは当たり前。母がご飯を食べさせることも、トイレに一緒に入ることも見る光景としては当たり前だった。
当たり前な光景に対して、
周りから言われるのは「偉いねぇ」「優しいねぇ」など。
私自身はその度ちょっと誇らしげ。家族から褒められることがないことに対して、褒められることは嬉しかった。だから5歳ながらにして「障害児のお世話をする自分」だったと思うし、偽善者だったと思う。周りと違うことに特別感や誇らしささえ感じていた。
褒められるって何か違うって照れ臭いけど、誇らしいし、嬉しい。
ただ、いつも父は
「家族なんだから当たり前だ」
幼いながらにこの記憶はよく残っていて。
大人になった今、私の根本的にある感情として大切にしている部分でもある。
周りの親戚が「偉いね」というよりももっと重みのある言葉だった。
それから「優しくすること」は私にとって当たり前のこと。
それが私にとっての当たり前。
でも、大人になればなるほど、
「どうしてそんなに優しいの?」「本当に優しいね」そう言われる機会が増えた。
私にとっての「当たり前」は周りにとっての当たり前ではなかった。
普通だったの?
当たり前と普通って同じような気がしていて。
私は大人になってから、ある人の話をしているときに、「普通だった時」という言葉が出てきたことがある。
その方は、後天性の障害だった。
私は健常者であることが普通とは思っていなかったのに「普通」なんて言葉が出てしまった。
そんなことを気づく前に、すぐに父に「普通ってなにかわからない」と言われた時に、ハッとした。
わかっていたはずなのに自分の中にも存在してしまっている「普通こうだよね」という価値観。
そこを完全になくすことは難しいけれど、
相手を理解する時に不躾な質問をしないことは弁えておかなければならない。
恋するふたりの最後のシーン
私の人生に何か言っていいのは私だけ
私の幸せを決めるのは私だけ。
普通などない中で、
どう生きるかは自分だけが決められる。
そしてその幸せも自分だけが決められる。
そんな風に、相手の幸せも尊重出来るような世の中になってくれたらいいな。
それではまた。
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