祖父の原稿12
十二 本四連絡橋完成記念健康マラソン岡山大会
昭和63年4月2日。倉敷市福田町体育館。瀬戸大橋マラソン大会第一会場入り口で、両手を大きく広げて近寄ってきた人に両肩を抱き寄せられた。気付いて見返したらモモタロウマラソンの中山さん。「大会要項の名簿に森脇さんの名を見ました。来る人来る人の顔を確かめながら待った」とニッコリした顔に接して緊張が解けた。
会場はすでに満員だった。正面の壇上に、山田敬蔵、君原健二、宇佐美彰郎、采谷義秋とオリンピック出場マラソンの金メダリスト4人が笑顔で迎えてくれた。思わぬ世界の人それも4人と多数の名選手に会えて、一緒に走れる幸運のツキに身が締まった。健闘を約し合って、用意された十数台のバスに分乗スタート地点大畠に移動する。
スタートは、大橋建設と並行して新設された瀬戸中央自動車道、8列縦隊の出走隊形で整列する。スタート直後は山があって橋は見えない。
この橋は1970(昭和50)年代「日本列島改造」のタイトルを掲げ田中角栄が地域格差を是正しようと、道路、湾港を開発し、全国を一本の道で結ぼうと高速道路を造った。進展する経済に電力の安定を計ると原発を推進した。全国を一体化するのに本四連絡橋を架けることになった列島改造の終末点、児島〜坂出ルート瀬戸大橋架橋記念大会であった。
陸路1.5km、橋上6km与島折返し15kmのマラソンスタートする。すぐに神道山に続いて鷲羽山トンネルを抜けた。眼前は川端康成の白い雪国ならぬ広大に開けた紺碧の瀬戸内海。海上に中空高くそびえ立つ巨大な橋脚が遠く霞む四国まで連なって消えている。道路両脇の小山のようなブロックから、直径1.2メートルもある主索が橋脚の頂部へ延び暖簾のように垂れ下がった吊線が橋桁をがっしり抱き締め、陸路を四国へ繋ぎ渡している。足元を列車が走っている。音は聞こえても揺れはない。想像もしなかった吊り橋に列車が走る奇想の現実に空駆ける天馬となって走った。櫃石島(ひついしじま)、岩黒島、与島と飛石のように小島を脚に架けられた橋の下の海上には、多くの船の甲板に立って俺たちを見上げ旗を振る人が見えた。これこそ連絡橋でだけ味わう最初で最後の感動だ。与島橋を渡り切った地点が北備讃瀬戸大橋の袂岡山側、香川側の境界点で両者折返し地点で、香川側も我が方同様無数のランナーが顔を合わす。無言のハイタッチで元気付け合い復路に入る。往復15km、1時間9分57秒でゴールした。
健康、視野、知識拡大に役立てた大会であった。