祖父の原稿 7
七 第一回 日本平桜マラソン
昭和59年3月3日。草彅陸上競技場。トラック第一コーナーに設けたスタートラインに立つ。コースメインスタンド前の100mを走り第四コーナーを直進場外に出て東門(現在は無い)から池田街道に出て西進、ロープウェイに入る。
9時00分23kmスタート。9時10分10kmスタートの指示に従って23km組の末尾に10km組がラインにつく。差別されたような衝撃が走った。10kmの扱いは添え物のように後手後手に小さく出ているだけ。参加者名簿の見出しにも昭和59年3月3日(日)AM9:00スタートとあった。また着順カードには、23km完走者の中から3名を抽選してサンフランシスコマラソンに派遣させる、としているが、10kmの部にはそんな恩典はなく、23kmマラソン主体となっている。10kmマラソンは付帯のような予感を迎える大会となっていることが悔しかった。初めは23kmを走る心算だった。距離的には、駿府マラソンは20kmの常連である。が実際に蓋を開けてみて考え込んだ。標高は216m。駿府マラソンの平地とは大違い、この高さを越えて23kmには慎重となって、パークウェイを中腹で折返す10kmとした。
このマラソンは前年の奈良大仏マラソンに静岡走ろう会大半が出場して、「吉備団子のモモタロウ宣教」「日本平桜マラソンを走ろう」の幡り(のぼり)旗を背負った安池康之会員を中心に盛り立て宣伝走が大きく物を言ったと思う。それまでつくし開催となったのに、10km走は影が薄い。ひねくれて男子壮年の部の一人としてスタートラインに立った。
初回大会としては他に例を見ない3263名と東北秋田から南は沖縄と多数のランナーが集ったが23kmは1401、10kmが1862過半数を10kmが占めた。
10kmを走る走ろう会会員で自分は最高齢者の部に入っている。会を引っ張るのは自分だと決め込んで、トップになるぞとスタートした。脇目も振らず連続する急坂を、スピードを落とさず駆け上って折返し点に着いた。まだまだ行ける23kmにすれば良かったと悔やみながらターンをして、楽な山下り気持ちよく走ってゴールする。
何分何秒を明記した完走賞は静岡走ろう会会員中最高位に改めて改めて日本平桜マラソンを実感する。