祖父の原稿 9
九 駒ヶ根高原マラソン大会
静岡県の西北部に位置する、南アルプス山脈の西側は深く落ち込んだ南北に長い伊那谷がある。その伊那谷の中央部に、中央アルプス山脈の中で2956メートルと一際高い駒ヶ岳を背負い天竜川に面した駒ヶ根市がある。その駒ヶ根大会本部からマラソン大会参加招請状が静岡走ろう会に届いた。
大会には古い歴史があることが分かった。
昭和39(1964)年東京オリンピック以降各地で雨後の筍のように開催されるようになったマラソン大会とは大違い、この大会は60年前の大正14(1925)年に、木曽山脈(中央アルプス)の盟主駒ヶ岳に高度差2280メートルの往復36キロメートルの「駒ヶ岳登山マラソン大会」が開催されたのが起源という。その2年前の大正12年は自分の誕生年で同期と感じた。
大会はその後昭和33年に「中央アルプス駒ヶ岳登山マラソン」となり、昭和58年「中央アルプス駒ヶ根高原マラソン大会」と引き継がれた。
他に例を見ない歴史ある大会から、昭和60年9月30日第3回大会の招待とあって静岡走ろう会は大半の会員が出場を申し込んだ。
スタートは街の中心部から山へ4kmいった、標高860mの地点駒ヶ池畔の会場である。13kmはスタートから山登り。駒ヶ根高原スキー場を経て標高980mの古城公園入口に向かっている。
ドーンと耳をつんざく煙火が上った。詰まったランナーが体を押し合いへし合いしている集団は後部へ行く程時間が経つ。駒ヶ池畔を離れたのは5分も過ぎてからで、完走のタイムが気になる。高低差120mの山肌を何度もジグザグを重ねて造られたコースを登るのは苦しい。がその苦しさは俺だけではない。皆苦闘しているのだ。負けられないと踏ん張りを入れて走った。噴き出す汗を拭いも出来ずやっと公園入り口の道標が見えた。時計を見ると15分だ。駒ヶ岳登山マラソンを走った人の苦しみを実感する。
ここから50m平坦を走る。待っていたのは路上いっぱい樹木が覆い被さった昼でも暗い6kmの下り坂トンネル。時間遅れを取り戻すには絶好の下りだ。大股走に切りかえて飛び込んだ。50mも行かぬ内に飛び降りるように足が痛くなる。堪えて走ったら膝が笑い出して、スピードを落とす。
ようやくトンネルを抜けた。大きな建物に突き当る。広い草園を控えた養命酒の駒ヶ根工場だ。途端に森脇薬局で扱っている養命酒がここからかと近親感にしびれ、走りに余裕が出来た。はじめて給水をとる。うまいさらっと喉を洗ってくれた。
コースは緩い下りが続いた先は、最低地点(公園入口から落差230メートル下の)総合運動公園前に出た。(あと5km)の道標で時計を見る。42分経過した。真っ白に干からびた面を見せる棚田で、前を走っている皆が首を垂れていて葬送の列に見えた。傾斜は厳しさを増して亀歩きの前に立ち塞がってきた。コースが日陰ったのに気付いて左を見たら、静岡県磐田見付の天神に霊犬悉平(しっぺい)太郎を送ったいわれのある光前寺の鳥居の先だ。急坂もここまでくればあと少しで頂上に出る。右手は山の急斜面に高い石垣を築いて建てた重要文化財となっている竹村家の門前、道標(あと1km)を見付けて、(もう絶対二度と来ないぞ)と業を喰いしばって急傾面を登った。峠を越してコースはゴールに向って逆落としの下りとなる。気持ちに余裕が出来たら(また来る)と駆け降りて完走のテープを切った。
63分14秒の完走賞に大満足。
苦しみ、喜び、充実、歴史に眼を開かせてくれたこの13kmマラソンは、走行距離、高低差とも大正に開催した初回とは比べにはならない小規模なものだが、心に、身体に与えてくれた栄養は大きい、心から感謝する。讃えて駒ヶ根高原を後にする。