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マコ・リオのダンス。そしてNiziU。

私は、マコ・リオのダンスがわかっているか?

 東京合宿ダンスレベルテスト。J. Y. Parkは、マコさんのダンスに、努力と誠実な人柄が見えると言い、リオには、ダンサーのようだが、それではダメだと言う(Nizi Project #4-2)。それぞれ感動的なエピソードで、それぞれに対するParkの言葉は強い説得力をもって響き、私たちは深く納得するものがあると感じる。だが、二つを同時に考えたとき、途端にわからなくなる。リオは、見る者に語りかけていないと言われた。確かにそうであるような気はする。では、マコさんのダンスが語りかけていたか、というと実はよくわからない。一方、マコさんのダンスに誠実な人柄と努力が見えるという言葉も、「これだけうまいのは、相当努力したはずだ」という類推を言っているのではないとすると、実はよくわからない。なぜ、マコさんはこう言われ、リオは言われなかったのか。結局、マコさんの力強いダンスはインパクトが強く、リオのはそうでなかっただけではないのか。感動の大きさに紛れて、こういう疑いを放置したままの人が多いのではないだろうか。
 
 さらに、ダンス経験者たちのある者は、リオを「玄人好み」と言い、別の者はマコさんについて同じことを言う。もっと根本的に、二人のダンスの違いはわかるが、その違いの意味がわからない。特にマコさんのは、すごいことは分かるが、すごさの由来・意味がわからない。
 
 こうした疑問を解決して、本当に「わかりたい」と思った。私が採った方法は、Parkや経験者たちの言葉、そして自分自身の印象のすべてを「信じる」ことだった。すべてを信じた上で、それらすべてを成立させる論理的帰結を掴むこと。成果はあったと思う。

マコさんのダンス

 工芸品の作者・クラシックの演奏家・歌舞伎役者なんかを考えている。彼らの生み出すものを「作品」、その過程を「制作」と呼ぶとして、どちらとして見ても、そこには厳密な様式がある。彼らは、その様式の理想形の現実化を求めて、作品の純度と高度を極めていく。その過程で技術が磨かれ続ける。もちろん、芸術作品となるためには、最後に個性のひらめきが乗る必要があるだろう。だが、それは俗に考えられているよりはるかに厳しい制約の下で起こることだと思う。個性の花は、技術が届いた様式の高みに応じてしか咲かない。
 また、彼らの作品において、個性は意識して乗せるものではないように思う。個性を出したければ、知見を増やし・教養を厚くし・感性を磨くといった、本業とは別の修練によって、作品の本体たる自分を豊かにするしかない。これに本業の修行に鍛えられた人間性が加わって、一つの嗜好性・指向性が生じる。これが技術の発動の際に、発動に影響し、技術が作品に刻み付けられる瞬間にある色を加える。それが個性に他ならない。したがって、制作の際に彼らが意識するのは、様式の理想への漸近線を辿りながら、己の技術を純化することだけだ。
 マコさんはここにいる。

リオのダンス

 美術、特に絵画において、技術よりは個性と感性が重視される傾向が目につく。印象派以降、デジタルアート以前のモダンアートまでを見れば、否定する人もいないだろう。これは、例えば音楽理論の精緻・細密な論理性に比べて、美術の理論があまりに曖昧で雑で、感性まかせの部分が多いことも一因。でも、やはり、ロマン主義が持ち込んだ個人信仰のせいだと思う。まず、自らの情動や感性や思想があり、作品はそれを表現する手段に過ぎないとする精神による作品―この場合、個性が嗜好・指向するイメージが先にあり、その具現化を目指して制作は行われるだろう。
 ただ結果としての作品は、自らの技術を通してしか実現しない。創作を繰り返すうちに、作家は、イメージの個性と技術の個性が重なる「個性の様式」とでもいうべきものに出会うはずだ。そこから先に作家が追うのは、やはり様式の純化だ。その過程でイメージは現実化度が増し、同時に技術が精錬される。
 リオはここにいる。

マコさんのダンスの意味

 クラシックとジャズのピアニストに喩えることは、二つのタイプの芸術の差異をイメージするのに有効かもしれない。しかし、マコさんは、もう少し独特で、別の比喩が必要だ。リオが目指しているダンスが、現代書道家の書のようなものだとすると、ダンスレベルテストの時点では、草書の達筆といったところ。能書の誇示がプロの鼻につくということもありそうだと納得できる。さて、マコさんは楷書を極めることを思い取った人だ。模範のある作業の簡単さ・模範をなぞるだけの退屈さを言う前に、すべての字を印字のごとく正確にしかも大きさも揃えて書くことに、どういう修練が必要かを想像してみるといい。一つの字を意識の集中の下に書くことを膨大な回数繰り返す、それを膨大な字数分行う―その努力の果てにしか達成できないことだ。ダンスを姿勢・動作の要素に分解して、その理想形を自分の身体が完璧になぞるまで繰り返す。要素の数を考えれば気の遠くなる作業。その後実際の振り付けに入って全体が完璧になるまで繰り返す。おそらくマコさんはそういうことをやっている。プロの目は、要素や振り付けの理想形とマコさんのそれとのズレ(ズレのなさ)を見るだろう。その極限までの接近に必要だった膨大な努力の量を感じながら。

 「弘法は筆を選ばず」という。書家の手がどんな筆によっても達筆なのは当然だが、実際の書家は、制作の際に筆を厳選するだろう。芸の域に達した(つまり「様式」を意識した段階の)芸術家は、多く、唯物的である。書家は水をも選び、画家は顔料の原産地にまでこだわる。スタンウェイが選ばれ、ストラディバリウスが珍重される。十八歳のマコさんは、そのことも知っているかのように、ダンスにとっての水であり・顔料であり・楽器である自らの身体づくりから始めている。

 高速ダンスをスローに戻して再生すると正確なダンスになるというような、マコさんの楷書のダンスは、こうした努力が見えるダンスだ。彼女が「語りかけるように」踊ったかどうかは問題ではない。そこに見えたものが、Parkほどの人間さえ圧倒し、「オーディションを見ながら涙が出たのは初めてのように思う」と言わしめる。そういうことだ。
 
 「リオが玄人好み」だということにはおそらく説明はいらない。このように言う人の心には、同時に「マコは教科書的」という言葉があるのだろう。だが、そう表現される場所でマコさんがやっていること、そのレベルが、息を凝らして技能の精進を追う別の玄人の心を震わすだろうことも、いまや説明はいらないだろう。

NiziUには、マコさんとリオがいる

 上に述べた姿勢をもつマコさんが、NiziUの最年長であり、あの人柄を備えていることの意味は、奇跡と言いたくなるほど大きい。ここに全員がひたむきであるというもう一つ奇跡が加わって、マコさんの姿勢が、アーティストグループNiziUの背骨に据わっているからだ。このとき、同じ頂へ別方向から登っているリオの存在の意味が輝く。芸術の求道に二面あるからではない。芸術上の追究には、この二つの面を往還しつつ螺旋上昇することが必要だからだ。

NiziUは奇跡の装置を複数内蔵している

 マコとリオがダンスにおけるツートップであるように、ニナ・ミイヒがボーカルのツートップだろう。多くの人がそう考えているし、私も異論はない。お互いもお互いを意識しているだろう。ミイヒは、ニナの高音とボーカルとしての存在感を、ニナはミイヒの歌に色をつける天性の声の響きとその結果の表現力を、自身の成長に貪欲で賢い子たちが意識してないはずはないと思う。ただ、上で言って来たのは、単に切磋琢磨し合う者どうしのことではない。もっと深く、ダンスにおいて、マコさんとリオがお互いの存在の意味を照らし合っている関係は、ボーカルでは、ミイヒ・ニナ対マコさんという関係だと思う。例えばアヤカが、ニナの歌を真似ることはできない。しかし、マコさんのボーカルトレーニングの姿勢は真似られる。あるいは、影響されやすく何でも吸収したいリクも、マコさんを手本としているからこそ、影響と吸収を経ても、自分の軸がブレることはないと思える(ダンス、ボーカル両方のレベルテスト一位の意味の深さ)。ミイヒもニナも、自己の個性の輝きを求める過程で、隣で基本に打ち込む人の姿勢の必要を感じるはずだ。

 仮に、初心者のマコさんが、リオにあこがれて、あの性格のままに、あの通りの追究のし方でリオのダンスを追いかけたらどうなったか、という妄想は、NiziUのファンとして実に興味深いものだが、私たちは、ラップにおけるマユカとリマの間で、それと似た物語を見ることになるだろう。

 最後だ。NiziUという光り輝くスーパーカーは、実はそのエンジンルームを開けたときの驚きの方が大きいのだ。トゥールビヨン・ミニッツリピーター・パペチュアルカレンダーという時計の三大機構をNiziUの比喩に使ったことがあるが、大げさではないと思っている。内部に、奇跡が生んだ希望の装置がいくつも組み込まれたグループ。NiziUは日本の宝だと、私は比喩以上の意味を込めて言ってきた。このままでは、沈みゆく日本経済とともに、やがて衰退しかねないJPOPにとって、NiziU自身が希望の装置なのだ。ソニー・ミュージックは全力をかけていい。メディアは精出して特別扱いすべきだ。企業はどんどん金を出すべきだ。それだけの可能性をもっていることを日本中が知って大事にすべきグループなのだ、そう思った日に私はWithUになった。

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