ミュージカルの起源を探る2~ヴォードヴィルとミンストレルショ―~

今回はヴォードヴィルとミンストレルショ―の2つをまとめていきたいと思います。

ヴォードヴィル

起源(名称)

15世紀のフランス、ノルマンディーのビールという谷町(val-de-vireまたはvaux-de-vire)地方で歌われた風刺的流行歌という説と、町の歌(voix des villes)だとする説がある。

起源(形式)

当初は酒宴や仕事の合間に歌われるシャンソンを指したが、後にそれらの風刺的な歌や踊りが演劇に取り入れられ、18世紀にはル・サージュらによるヴォードヴィル入り喜劇が流行、ボーマルシェなどにも影響を与えた。1792年にはパリにヴォードヴィル座などの専用劇場も建てられた。19世紀にはラビッシュの『イタリアの麦わら帽子』などの名作も現れたが、やがてオペレッタに座を奪われ、歌の入らない軽喜劇を指すようになった。

アメリカでのヴォードヴィル

アメリカには以前からミンストレルショ―やイギリス原産のバラエティを祖とする雑多なヴォードヴィルがあったが、「ヴォードヴィルの父」と呼ばれるトニー・パスタが1881年にニューヨークに開いた40thストリートシアターで、本格派の歌手、コメディアン、曲芸師などを使った洗練されたショーを公演して以降、この種の物が主流となった。全盛期は1890~1920年代で、1913年に開場したニューヨークのパレスシアターはヴォードヴィル専用劇場としてエド・ウィン、エディー・キャンターなどが活躍した。しかし1930年代以降は映画、ラジオ、TVにとって代わられた。アメリカのTV演芸番組は、エド・サリバン・ショーをはじめ、ほとんどがヴォードヴィルの継承である。

出典:アメリカ大衆芸能物語/R・ナイ著、亀井俊介 他訳
※日本大百科全書(ニッポニカ)コトバンク版より


   

ミンストレルショー

起源

アメリカで1830年代に簡単な幕間の茶番劇として始まり、1840年代にはショートしての形式が整った。コルクを焼いた炭で顔を塗った白人が、音楽、ダンス、スラップスティックコメディ、寸劇を行う物。黒人のパフォーマーもいたが、彼らもコルク炭を顔に塗った。

形式

  1. パレード……劇場に向けて一座がパレードを行う。

  2. 1幕……一座の全員が流行歌を歌いながらウォーカラウンド(walkaround)と呼ばれる踊りを踊る。インタレキューター(Interlocutor・司会者)を中心に、両サイドにエンドマン(又はコーナーマン)と呼ばれるキャラクターが据わる。インタレキューターとエンドマンがジョークを言い合い、ユーモラスな歌や感傷的な歌を歌った。歌はテノールのミンストレルがこのパート専門に歌うようになった。アップテンポのプランテーションの歌と踊りでこの幕は終わる。

  3. 2幕……オリオ(Olio)と呼ばれ、元々は3幕の舞台セッティングの間の繋ぎだった。ダンス、楽器の演奏、曲芸、ヨーロッパ風エンターテインメントのパロディ等が行われた。ハイライトはエンドマンによる街頭演説(stump speech)のシーンで、言葉の誤用、ジョーク、ダジャレなどで笑いを誘った。エンドマンはジョーカー的存在だったので、痛烈な社会批判などを行っても許された。

  4. 3幕……寸劇(アフターピース、afterpiece)が行われた。理想的なプランテーションの生活と、そこに住む”幸福な奴隷”が一般的な出し物だったが、1850年代からは『アンクル・トムの小屋』やシェイクスピアのパロディも増えた。


ミンストレルショ―は、観客に『牧歌的な南部のプランテーションで幸せに暮らす、教養のない黒人奴隷』というステレオタイプを植え付け、差別を助長する原因ともなった大変取り扱いの難しいカルチャ―なのですが、今は概要をまとめるという目的に則った記載とさせていただいております。

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