「母は強し」の呪い
「母は強し」という言葉は、本当は「女は弱し、されど母は強し」ということわざらしい。『レ・ミゼラブル』などの作品を書いた 世紀フランスの文豪ヴィクトル・ユゴーが残した言葉だという。これ、女が言った言葉じゃなかったのか。なんだかなあ。
そんな「母は強し」という言葉を、私の母は時折口にしていた。
それは実家の茶の間で見ていたどこかの家族のドキュメンタリーや、何かのドラマの中などで、さまざまな困難に耐えて子供を守る母が登場したときに、ある種の重みを伴って口にされる言葉だった。
「母は強し、なのよ」
母はどこか自分に言い聞かせるような口調で言った。私はその言葉をいつも複雑な気持ちで聞いていた。
私たちの存在は、そんなに強くならなきゃいけないほどの苦労をこの人にさせているのだろうか。いつか私も、子供を産んで母になったとしたら、どんな困難も「母は強し」で耐えなければいけないのだろうか。
そう考えると「母」という存在は子供ながらに底知れない、親しみよりも畏い 怖ふ に近い、よく分からないもののように思えてならなかったことを覚えている。
「母」という存在になったら、どんな困難でも耐えられる力が自然につくの? どうして? どこから? どうやって?
母は、実際いろんなことに日々耐えていた。
義両親との同居や、故郷から遠く離れた土地での生活、さまざまな家のしきたりや文化の違い。仕事人間の夫がほとんど家にいない中で四人の子供を育て、毎日朝と夕方の食事とお弁当を作り、パートへ出る。書いているだけでめまいがしそうな毎日を何十年も続けていた。
田舎の古い家だから、「今日は疲れたから外食ね!」ということもできないし、ルンバも食洗機も洗濯乾燥機もまだなかった。
そういう時代だったからしょうがない、と言えばそれまでかもしれないが、どんな時代でも女は人間である。自分以外の家族の都合に合わせて自分をすり減らす生活は、子供の私から見てもつらそうだった。
「母は強し」とおまじないのように唱えて、自分がそれを乗り越えられる属性であるということにしなければ、まともに立っていられなかったのだと思う。
私は母が苦しんでいるのにどうすることもできないのが悲しかったけれど、「強い母」としてさまざまなことに耐えることは、次第に母のアイデンティティのようになっていった。「この困難な状況を変える」ということは諦め、「この困難な状況を耐え忍ぶ」ということに価値を置くことで、自分の心を守ったのだと思う。
そして大人になった娘の私に、自分と同じように「強い母」や「できる嫁」になることを望むようになった。そこに最も価値を置いてきたから、娘にもそうであることを求めたのである。
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