鳥のうんこまみれの世界で『君たちはどう生きるか』
※作品のネタバレを含むので鑑賞後にどうぞ!
初日初回に見てきたわけですが。
見に行く前は、尊敬してるけど最近ちょっと偏屈さが増してきて絡みづらいな〜と思ってるおじいちゃんが、『お前らに言っておきたいことがある』というので、まあ行くけどちょっと長めのお説教されそうだな…」という気持ちが7割、
「俺を育ててくれた偉大なおじいさんが打ち上げるラスト花火を見逃すわけにいくか」という気持ち3割だったんですが、
始まってすぐ「どっちもだな!!!!」となりました。どデカお説教花火!!やりたい放題!!言いたい放題!!!
作中にはこれまでの宮崎駿作品でみたことのあるアングルや状況が散りばめられていて、「これは駿が死ぬ直前に見る走馬灯……??」という気持ちに。
中身もちょっと悪夢っぽいというか、ファンタジー世界と現実を主人公が行き来するんだけど、作中の現実のほうもなんだか現実味がないというか。パラレルワールド感があった。
たとえば冒頭で出征?行進?する戦車のシーン。太平洋戦争あたりで日本ってあんなに戦車作ってたっけ?ないよね? 行進する軍人を描きたいなら、歩いてても良さそうなもんなのに、あえて戦車の行進を書くあたり、「これは現実の戦時中の話ではなくて、パラレルワールドの話ですよ」という表明に思えた。
そんな駿の走馬灯ワールドのなかでは、ちょっと、というかかなり露悪的な人物描写があちこちに。
ここまで人間のいやらしさを包み隠さず描いたのは宮崎駿作品であんまりなかったんじゃないかな。「戦争して自然を破壊する人間の愚かさ」とかデカいテーマでの人間の汚い部分というのは多く描かれてきたけど、もっとスケール小さくて身近な「小狡さ」とか「卑しさ」とかの方をすごく意識的に書いていたと思う。
噂話ばかりで意地汚い老婆たち、妻が死んだのにすぐ代わりの女(しかも妻の妹!)とくっついて子供まで作る父、お前の父はもう私と子供作ってるのよと暗にアピる継母、そして主人公は盗んだタバコで老人を買収!みんなちょっとずつ嫌な奴なのである。
「主人公がタバコで老人を買収する宮崎駿作品が見られるのは『君どう』だけ!」といったところ。
これまでの宮崎駿作品の主人公とは全く違うのは明らか。
それは宮崎駿自身の少年期を投影しているから?とも読める。
『紅の豚』のポルコ・ロッソも宮崎駿自身がモデルらしいけど、あんなふうに格好良く見せる気は全然無いんだなと思った。(眞人くんの造形は美少年だけど)自分を含めた人間の嫌な部分をガッツリ描くぞ!という気合いを感じた。
そして私が気になったのは「鳥」の描写。鳥めちゃくちゃ出てくる今作。サギ、ペリカン、インコ。
ペリカンとインコは大群で出てくる。しかも主人公たちに害をなす、見た目もちょっと気持ち悪い存在として。
これまでの宮崎駿作品でいうと、「鳥」や「空を飛ぶもの」って神聖で美しくて、汚れない、夢の象徴みたいな存在じゃなかった?
鳥の人、メーヴェ、飛行石、真紅の飛行艇、空飛ぶ箒、羽のある少女(オンユアマークの)、ハク龍、零戦…
パッと思いつくだけでこんなに。鳥や空を飛ぶもの関連の造形はみんな美しく描かれてきてる。
宮崎駿と空を飛ぶ鳥への憧れって切っても切り離せなかった。それが醍醐味みたいなとこあった。ずっと「人類の最大の夢」として描かれてたわけです空を飛ぶことが。ムスカも言ってたよな。
ところがどっこい『君たちはどう生きるか』では、まず物語のキーになるサギがキモい!宮崎駿ならもっと美しいサギの飛ぶシーンが書けるだろうけどめちゃくちゃわざと不気味に書いている!造形も動きもなんか怖い!
そしてキモいサギのクチバシからさらにキモいおっさんが出てくる!!ヤバすぎ!!!
これに関しては本当に私の解釈だけど、これまで「大きな夢(=飛ぶこと)」を描くアニメーションを作ってきた宮崎駿が、人生の終盤でこれまでまっすぐ描いてこなかった人間の卑しさに向き合った結果、美しいだけの夢(=鳥)を描くことへの欺瞞を感じて、醜い鳥の中身にさらに醜い男(主人公とは別のもう一人の自分)を描くに至ったのではないか。すごく自己批判的。
アニメーションという着ぐるみのなかには卑しい自分がいる、的な。
サギは主人公にクチバシを射抜かれて飛べなくなり、主人公にクチバシの穴を塞いでもらってまた飛べるようになる描写もあったけど、この関係性も「少年期の自分と現在の自分の和解」とも取れなくもない。
…なんて解釈は単純すぎ?他人の感想を見る前に書きなぐっているので、もしかしたらもっと有識者のそれらしい解釈があるかもしれない。
ペリカンとインコについてはちょっとよくわからなかったんだけど、鳥にアニメーションの夢を託していたのだとすれば、今作のペリカンとインコは駿に群がるダメな業界人やわかってない大衆のメタファーか?
まさに「烏合の衆」という描かれ方だったから、本当に軽蔑している何かを暗示しているのだろう。
鳥がうんこをたれている描写をわざわざ描いてるのもヤバい。鳥のうんこはさしずめ「わかってない奴らによる勝手なアニメの考察や感想」か?そしたらこの文章も鳥のうんこということになる。ゴメンな!
そんな「お子様お断り」とすら思えるいろいろ露悪的な今作、それでも駿が諦めないのは「母性」への憧れでした。最後までそこは貫く!これぞ元祖の味!
作中で唯一清廉なキャラクターとして描かれていたのは主人公の母。母の力、母の愛には一点の疑いも汚れもなかった。
宮崎駿と母性については他の人がさんざん語っているけど、長い人生を経ても揺らがないよう。主人公は母と出会い直し愛をもらうことで自信を得て、元のクソみたいな世界に帰る。
主人公は冒険を経て、卑しい婆さんたちのことや、マッチョイズムな父のこと、その後妻であり新しい母、キモいサギのことをちょっと大切に思えるようになる。サギに関しては「友達」と呼ぶまでに。
人間は卑しいし世界は嫌なことだらけで、文字通りクソまみれだけど、それでもちょっと愛せる部分はあるし、なるべく愛していきたい。というのが、「俺はこう生きた」という駿の結論なんだろう。
そのうえで、これを見た君たちはどう生きるか?という、やはりおじいさんからの最後の?お説教なのだった。おじいさん、足しびれちゃったけど言いたいことはわかったよ。
ほかにも、ハウルをやった木村拓哉をマッチョイズム父さんに起用した意味とか、高畑勲を投影した「大叔父さん」の存在とか、いろいろ考えたいことはたくさんあるけどまだ一回しかみてないので理解が追いついていない。
おじいさん、もう一回話を聞かせてください。やっぱりおじいさんの話が好きなんだよ。