チチトキオク
それっぽくカタカナで書きましたが、「父と記憶」です。間違っても「乳と記憶」ではございません。
なぜ父について書こうと思ったか、といえば、先日の前田ショータさんのトークショーにお父様との関係を語られていて、なんとなく私の父の事を思い出したから、です。
私の父は「豪放磊落な商売人」でして、思い出をいくつか書いてみると、
・我が子の陣痛が始まった時、麻雀をしていて、
オカンは一人で病院へ
・喘息に苦しむ我が子の隣で、タバコ吸いながら
「大丈夫か?」と言う
・残り1個のコロッケを巡り、当時高1の私と
殴り合いのケンカをする
・その挙句、「誰の金で食えてると思ってんねん」
というお決まりの台詞を吐く
・勉強している息子に、「そんなに勉強して何が
楽しいねん、外で遊べ」とおちょくる
・そのくせ、大学合格者が載る「サンデー毎日」を
買い、知人に自慢する
・玄関先で寝てる(もちろん飲酒運転)
※ダメ、ゼッタイ
書いていて頭がおかしくなりそうですが、そんな父は私が28歳の時、享年58歳という若さでこの世を去りました。
我が家は代々商売人の家系でして、父はもちろん、親戚も母方の祖父もみんな商売をしていました。ただ一人、
父方の祖父だけは何の仕事をしていたのか未だ不明です。(一応商売はしていましたが)
父は高卒で家業?を継いで、バブル期もあればシンドイ時期もありつつ、息子二人を中学から私立の進学校に入れてくれて、大学生の頃まで仕送りもしてくれていました。
父親との記憶(大学生編)
私は京都で一人暮らしをしていたので、この時期あまり父親と接点は無いんですが、たまに実家に帰った時に、車で京都まで送ってもらいました。
そんな道中、あるホテルを見つけて、父と母の車内の会話
母「あれ?このホテルやんね?」
父「はっ?なにが?」
母「忘れたとは言わさへんでぇ」
父「・・・」
男子校で過ごしたおかげで、めっきり女性に免疫が無い私にもピンときましたよ。
「密会してたのがバレたんです」
ただ、そんな話を息子の前でするもんですかね。。。
(余談)
そんな父の葬儀に、愛人が居たとか居ないとか。
ただ大学時代の一番の思い出は、就職活動において、父に「どこに行きたいのか?」を聞かれたことです。
私は京大院卒なので、正直どこの大手企業にでも行くルートはありました。トヨタやホンダ、関西電力にP&G、コンサルティングファームなどなど。
経緯はここでは割愛しますが、私はディスコという当時まだ小さい半導体装置メーカーへの就職を決断しました。(今は結構大きな会社です)
母は当然大企業に行くもの、と思っていたので、かなりショックを受けたみたいですが、父は
「そんなにごちゃごちゃ言わんと。自分で決めたんなら、その道を突き進んだらええねん」
と真面目に言ってくれました。
この一言は、当時の私にはとてもありがたかったです。
父親との記憶(社会人編)
社会人になって私は東京に移ったので、実家に帰る機会は更に少なくなりました。
毎晩のように川崎のキャバクラに通ったり、夜中3時に女の子から、「恵比寿に迎えに来て(はぁと) 」 と言われて車を出したりしていた、なんて事は、親は絶対に知りません。
彼らにとっては、私は永遠の良い子ちゃん、なのです。
そんな設計業務をバリバリやりながら過ごしていた3年目の4月に、母親から1本の電話が入り、この電話によって奈落の底に落とされます。
父との記憶(末期がん)
その電話によると、父は末期の肺がんで、余命3ヶ月という内容であった。
私はもうすぐ28歳になる、という頃で、それまで父方の祖父が一人死んだぐらいで、後はみんな生きていました(介護中の祖父母はいましたが)
そんな中、父親の余命3ヶ月、という現実を受け入れるのがとても難しかったのを、15年経った今でも鮮明に覚えています。
同じ社員寮に住んでいた同期の部屋に行って、ボロボロと泣きました。
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それから生活は一変し、毎週金曜の夜に羽田から飛行機で実家に帰り、父が入院する病院で週末を過ごし、日曜の夜に寮に戻る、そんな日々を過ごしました。
毎週会うごとに細くなっていく父親に、何か出来る事はないか?と考えた結果、2つアクションを起こしました。
(1)父の趣味であるゴルフを始める
父と息子が病室に居て、わいわい会話が弾むもんでもありません。
そこで、私は父の趣味であったゴルフを始め、病室で素振りチェックをしてもらったりして、父も「はよ元気になって、一緒にゴルフ行きたいな」とよく言っていました。
残念ながら叶いませんでしたが、ゴルフは今もやっています。ただ、スコアは聞かないでください。
(2)仕事の悩みを父に初めて相談する
当時は社会に出て2年、新機種開発プロジェクトに配属となり、ブラック企業も真っ青?という地獄の日々を過ごしていました。
そして、社会に出てゆっくり実家で過ごした時間が無かったのもあり、それまで両親に、仕事の話をした事が一切ありませんでした。
ただ病床に臥す父に、息子も社会に出て働いてる、という事を伝えて安心してもらいたいと、初めて仕事の内容や厳しさなど聞いてもらいました。
結構緊張しながら相談したのを覚えています。
その場では父からも厳しい言葉をもらいましたが、父の死後、母から聞いた話では、私が仕事の悩みを打ち明けた夜、父は「アイツが初めて仕事の話してくれたんよ、それがなんとも嬉しくて」と泣いていたようです。
父が最後に教えてくれたこと
懸命の看病も実らず、父は余命宣告とおり3か月して他界しました。
そんな父の葬儀告別式には、800人の方がお別れに来てくださりました。
私はまだ800人がどれだけ多いか、という事は分かっていませんでしたが、ただの商売人としては、かなり多かったみたいです。
そして通夜では、年配の方々が私にも話し掛けてくれて、
・お前が自慢の息子か、父ちゃん自慢しとったで
・トシ坊な(あだ名)、あんなええ人間おらんで
・何人オンナおったか知ってるか?
(これは嫌でしたが)
など、父の生前の破天荒エピソードも含めて、真夜中まで色々とお話を聞かせてくれました。
そんな父の死を通して、私が強く感じたのは、
「これだけ多くの人の記憶に残る人生って、素晴らしい人生だったんだな」
という事です。
父は商売人としてお世辞にも大成したとは言えません。
でも、それほど多くの方の中に楽しい記憶として残ったのは、
父も知人や関係者と、とても良いお付き合いをしてきた、という事でもあります。
「人は二度死ぬ」という言葉があります。
※ルパンではありません。
それは、肉体的な死と、人々の記憶から無くなる死。
少なくとも私の中の記憶は、まだあと数十年は大丈夫です。
お世辞にも生きやすいとは言えない世の中になってきました。
自分の事で精一杯、という方もいると思いますが、今こそ人の繋がりを、もう一度見直してみませんか?
友人と楽しい時間を過ごし、人の記憶を大事に生きていくと、死んだとしても、人の心の中でもう少しだけ生きられますよ!
(ただし、死霊にはならないでね)
「出かける準備は出来ているか?」
合同会社ゲットゴーイング